罪のある存在
私は罪のある存在です
だから全てへ
「ありがとう」と言わなければ
ならないのです。
私の犯している罪は、
私が生きるために必要な
物事なのであります。
ここに私の罪がある
もっと言えば、私自身が
罪。
しかしこういうことは、私
だけかしら、と
他を責めてしまう私は
やはり罪のある存在だ。ごめんなさい
だけれどやはり
ここでも
「ありがとう」を言う私は
罪ですか。
朝、お日さまが昇る頃
コーヒーカップを
「コトン」
と木製の円卓に置いて
「ごちそうさまでした」と
あいさつをすます。
コメント
ごちそうさまでした
と
ありがとう
が、ゆっくりと流れて罪深く優しいです
朝のコーヒーの美味しさは
木製にもある
生命は他の生命を頂くことで繋がっている。
この壮大なシステムは時に崇高で有り難く、時に罪深いのでしょう。
我々にできるのは意図するしないにかかわらず、システムを運用することだけなのでしょうかね。
生命を丁寧にいただきながら。
那津さんへ そう、ごちそうさまでした と ありがとう を言わなければならないのが私です。
那津さんが、罪深く優しい、と言ってくれてこの詩も私も救われます。ありがとうございます。
そうですねぇ、朝のコーヒーにも私は救われています。ありがたいことです。
あぶくもさんへ ここでは「罪」と言っていますが、「悪や善と『言う』のはヒトだけよ」とも思っています。自然に存在する存在自体に「罪」は無い、のかもしれません。
しかし、罪がある、としなければ何と言えばよいのでしょうか。別にヒトに限った事ではないとも思います。
宗教のことにも全く詳しくない私ですが、罪の意識がどこかしらにあるのを認めなければ 先へは進めないと感じたのでこの詩を書いたとも言えます。
そう、あぶくもさんの言ってくれている通り、生命を頂けることはとっても有り難いことですね。
あぶくもさんが言ってくれたことに感謝します。ありがとうございます。
生きることは、罪である、と少なからず思っています。大切なのは、そのことに自覚的であるか否かです。私も、罪を背負って生きてきました。これからも生きていきます。
一行目のインパクトと、「ありがとう」さえ罪かと問う姿勢に、ちょっと衝撃すら感じました。つまり「おはよう」も「おやすみ」も罪なのかもしれないし、あらゆる事象が罪である可能性まで飛躍してしまって、今あたたかい風呂に浸かってこのコメントを書いている自分はなんて罪深いんだと、なんだかにやりとしてしまうのです。
長谷川さんへ 長谷川さんがこの詩に、もっと言えば、私の言っている事に共感してくれたようだと思うので ありがたいです。ありがとうございます。
そう、生きることは 罪なのかもしれませんね。他の詩で、「私には悪がある」とも私は言っています。しかし、あぶくもさんへさっき言った通りで、「悪や善と『言う』のはヒトだけよ」とも言えると思うのです。
しかし多次元的に見て、「罪」を突き詰めていくと、宇宙の始まり(もしくは、この宇宙の始まりのもっと以前?までに)まで さかのぼることになるのではないでしょうか。
言われてみれば そうですね、長谷川さんの言ってくれた通り、大切なのは罪ということに、自覚的であるかそうではないか、ですね。
色々な罪があるかと思います。根源的な罪も。私も罪を背負ってこれからも生きていきます。罪を背負って生きていくという事は、色々な意味で ありがたいことだと思います。
トノモトさんへ この詩は、今日(1月24日)、大体5分位で書いたものです。ほぼ自分のこころの奥(もっと言えば魂?)に突き動かされて、一行目からほぼ一気に書いたものです。
私自身の持っている罪を認めなければならない、そして、それでも生きたい、という罪深さ。なので私は全てへ感謝しなければ生きていけないのです。
トノモトさんがこの詩を読んでくれて「自分はなんて罪深いんだ」と言ってくれて、そして、「なんだかにやり」としてくれて ありがたいです。ありがとうございます。
追伸
トノモトさんがお風呂でこの詩を読んでくれてコメントなどしてくれたこともありがたいです。^-^
罪だらけで罪にまみれて生きているぼくたちですが、数えきれないぐらいの罪と同じ数だけ赦しや救いがあるのだとすれば、罪深い人生にも意味があるのかもしれない。そんな罪深いことを思いました。
とても温かい視点だけどどこか凄みもあります。素敵!
「生きていくのはみっともないこと」が私のモットーです。
この詩にはそれを自覚しながらも生きていこうとする
覚悟と意志を感じました。
「ごちそうさまでした」は美しい言葉です。
あまねさんへ ああ、そうですねぇ、あまねさんの言う通りですね。罪と同じ数だけ赦しや救いがあるのかもしれません。きっとそうなのでしょう。なので、あまねさんが言ってくれた通り、罪深い人生にも意味があるのでしょうね。あまねさんからとてもいいことを聞けました。あまねさんがそう言ってくれて、この詩も私も救われます。ありがとうございます。
とても温かい視点だけどどこか凄みもある、素敵!と言ってくれたことにもたいへん感謝します。うれしくありがたい!
nonyaさんへ
※今、用事ができたので、後日コメントをします。あしからずご了承ください。拝礼
nonyaさんへ うん、「生きていくのはみっともないこと」というのを自覚しているnonyaさんは、柔軟な強さを持っている方なんだろうなと思います。そういうnonyaさんがすてきです。
そして、この詩のことを認めてくれて、覚悟と意志を感じてくれまして貴重に思います。ありがとうございます。
うん、この詩で私は、全てへ「ありがとう」と言わなければならないのです、と言っています。しかしながら、時には、そのある物事に対して腹を立てたりすることもあります。それでも、宇宙的な立場から見た時に、全てへありがとうなのです。悪も善もその他も含めて、私が今こうして存在できていられるというのは、全てのおかげですから。ただし、もし私が肉体的・精神的にとっても苦しい切ない時には、感謝する余裕は無いのではなかろうかとも思われます。まぁ、その時はその時だし、最期には感謝して逝きたいです。^-^
はい、そうですねぇ、nonyaさんの言う通り、「ごちそうさまでした」は言われてみれば美しい言葉ですね。それを教えてくれたことも、ありがたいです。うん。
朝の珈琲は罪深いなと思います。
円卓、おしゃれですね。
おっしゃっていることはまさに「原罪」の概念そのものでありキリスト教的(西洋的)であるのですが、しかし最終連に向かって視点が個人から汎世界へと拡がり、全体を通してみると仏教的(東洋的)な雰囲気となっているのが面白いなと思いました。
たちばなさんへ うん、朝の珈琲は罪深い、そうかもしれませんね。
カフェイン抜きのコーヒーがありますけど、コーヒーってカフェインが含まれているからこそのコーヒーなのかもしれませんよね。^^;うーん、朝にわざわざカフェインをとるのって、言われてみれば罪深いのかも。ふふ。何年か前にインスタントコーヒーを一日一杯までにしていた時期があったんですけど、長続きしませんでした。最近は、一日に3、4杯は飲んじゃう。うむ、罪深い。^^;でも止められません。
円卓は実際に私の自室にあって、折り畳み式のちゃぶ台です。円の直径65センチほどの小型のちゃぶ台。
これは東京に住んでいた頃に、下北沢の雑貨店で求めたものです。これを愛用してから20年位経ちます。大好きなちゃぶ台。^^たちばなさんが円卓のことをそう言ってくれて うれしいです、ありがとうございます。
コメントしてくれてありがたい♪
たかぼさんへ 宗教のことにも全く詳しくない私ですが、たかぼさんにこの詩をそう捉えてもらいそう言ってもらえて、ありがたく貴重に思います。ありがとうございます。^^
うむ、この詩で私が言っていることは そうなのですね、原罪。「原罪」って聞いたことがあるし、今広辞苑を引いたり、ネットで検索してみました。んー、生まれながらに持っている罪ですか。うん、そうですね。
しかしながら、そもそも「罪」というのはヒトが決めた考えですね。宇宙やある種の自然の立場からみれば、「罪」ということは、全てのヒトや全ての存在にも当てはまらないのではないでしょうか。とはいえ、罪はあるとも 言えますね。哲学的なことも私には難しすぎますが。さて、本当のことは 「本当」にしか分からないのかも。←と言う私は罪深い^^;
でも、この詩をそのような雰囲気になっていると言ってくれまして、ありがたいです。たかぼさんがそれを面白いと言ってくれたこともうれしい♪^^
たかぼさんへ
追伸 この詩やぽえ会とは関係ないことですが(たかぼさんへ伝える手段が今はここしかないので)。
たかぼさんの詩集を少しずつ読んでいます。私は遅読なので いつ読み終えるか分かりませんが。
でも、途中まで読んで、哀しみに彩られた詩の強度を感じています。その哀しみはただ哀しいだけじゃない、読んでいて、たましいがさわやかに高揚などする感じですてき。続きも味わいながら読みますね。^^
私の詩集を買ってくださったのですね! 恥ずかしいですが嬉しいです! ありがとうございました!
たかぼさんへ はい、アマゾンで たかぼさんの詩集を求めました。以前、あるお方が たかぼさんのだと言ってツイートしてたのを見てチェックしておいたのを求めたのです。
遅読なので少しずつですが、味わいながら拝読しています。^^