桜の降る町

京都へ行かなくなって、
もう幾年になるのだろう。
三月のあの町には、
今も桜の花びらが
静かに降っているのだろうか。

私はまだ、
着物の袖にさえ
心を隠せない年頃の少女だった。

幼い頃、
東京で暮らしていた私は、
渋谷の街へよく出かけた。

人の流れの中を歩き、
小さな店先で
着物を着せてもらった。

その頃の私は、
着物というものが
ただ美しい布であることしか知らなかった。

肌に触れる柔らかさと、
春の日のような温もり。

それだけで、
心は満たされていた。

私は道端の猫のようだった。

知らない路地へ入り、
角を曲がり、
また別の街角へ走ってゆく。

もしできるなら、
自分の着物を脱いで、
あの猫に着せてあげたい。

そんな幼い夢を、
本当に抱いていた。

猫は走った。

いくつもの丁目を越え、
上野公園の門の前まで。

桜の木の下で、
小さな声を震わせながら鳴いていた。

まるで、
春の美しさに驚いたように。

私は猫の後を追い、
公園の奥へ歩いていった。

そこには、
東京の三月があった。

淡い光の中で散る桜。

けれど私は、
いつの日か東京を離れるような気がしていた。

海の近くで、
それでも桜の咲く場所。

まだ見たことのない町を、
心のどこかで待っていた。

それは遠い未来のことだと思っていた。

けれど春は、
いつの間にか私の前に来ていた。

十五歳になった私は、
京都という古い町にいた。

二年坂。

石の道を歩けば、
着物姿の人々が静かに行き交っている。

私はその中で、
ひとつのことを考えていた。

いつか、
私と同じように
着物を愛する少年に出会えるだろうか。

その人も遠い場所から京都へ来て、
この古い坂道を好きになるだろうか。

夕暮れの石畳や、
春の匂いを覚えてくれるだろうか。

私は時々、
ひとりで詩を書く。

過ぎてしまった恋のこと。

まだ来ていない恋のこと。

ある日は、
竹林の奥から現れる
小さな鹿になる。

人がその姿を見つけた時には、
もう森の向こうへ消えている。

誰にも追いつけない歩み。

それが私の心なのだと思う。

京都は近いはずなのに、
私はいつも迷ってしまう。

二年坂へたどり着いた頃、
桜は満開だった。

春の光を受けた油紙の傘が、
店先に並んでいた。

あまりにも可愛らしくて、
私は二本買った。

一本は私のため。

もう一本は、
いつか出会う誰かのため。

私は信じている。

遠い時を越えても、
愛する人は
この心を見つけてくれると。

桜の下で出会った人は、
少しだけ優しくなる。

花は永遠ではない。

数ヶ月もすれば、
桜はもうどこにもない。

五月の風の中で、
人は散った花びらを思い出す。

京都の小さな道にも、
三月のような桜はない。

それでも、
誰が春を忘れられるだろう。

桜は詩になり、
古い書物の中に眠る。

そして、
誰かが愛を知る季節に、
静かに開かれる。

三月の桜は、
あれほど美しかったのだと。

次の春が来たら、
私はまた京都へ行くだろう。

桜の咲く小道を歩き、
また小さな詩を書く。

いつの日か、
私の言葉もまた、
桜の記憶の中に残ればいい。

多情で、
傷つきやすい心の奥には、

ひとつの桜の夢が眠っている。

部屋の中でひとり、
私は自分を
「桜」と呼んでみる。

いつか、
愛しい人が春の道を歩いて来たなら、

私はそっとその目を覆い、

耳元で尋ねる。

「桜はあなたを愛しています。

あなたもまた、

桜を愛してくれますか。」

投稿者

福岡県

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