せんせい
せんせい、ぼく、さんせいする
ぼく、じぶんに、さんせいする
すなおさに、さんせいする
すなおになれないことに、さんせいする
なやむことに、さんせいする
せんさいさに、さんせいする
だいたんさに、さんせいする
いま、おきていることに、さんせいする
えがくみらいに、さんせいする
せんせい、ぼく、さんせいする
ぼく、かぞくに、さんせいする
へいわに、さんせいする
けんこうに、さんせいする
あんしんに、さんせいする
いきものに、さんせいする
しぜんに、さんせいする
ちきゅうに、さんせいする
うちゅうに、さんせいする
めのまえのあなたに、さんせいする
せんせい、ぼく、さんせいする
ぼく、つたえることに、さんせいする
つたえきれないことに、さんせいする
マニフェストに、さんせいする
しけいしゅうのべんごに、さんせいする
はいごに、さんせいする
うつびょうに、さんせいする
ぐうぜんのいっちに、さんせいする
きせきに、さんせいする
せんせい、ぼく、さんせいする
ぼく、おなじことに、さんせいする
ちがうことに、さんせいする
あんらくしに、さんせいする
あなたらしさに、さんせいする
こっちむきに、さんせいする
ぎゃくむきに、さんせいする
もっていることに、さんせいする
もっていないことに、さんせいする
ひきこもりに、さんせいする
ばくはつに、さんせいする
せんせい、ぼく、さんせいする
なきたいブルースに、さんせいする
わらいあふれるこのよに、さんせいする
みどりいっぱいのこころに、さんせいする
じゆうきままに、さんせいする
いまここにいることに、さんせいする
おカネに、さんせいする
おカネがないことに、さんせいする
あるものがないことに、さんせいする
ないものがあることに、さんせいする
せんせい、ぼく、さんせいする
たろうさんととしこさんに、さんせいする
ジョンとヨーコに、さんせいする
ミックジャガーに、さんせいする
ルーリードに、さんせいする
ジャニスジョプリンに、さんせいする
ジミヘンドリックスに、さんせいする
にんげんに、さんせいする
せんせい、ぼく、さんせいする
ぼく、ブッダに、さんせいする
アラーに、さんせいする
クリシュナに、さんせいする
イエスキリストに、さんせいする
あまてらすおおみかみに、さんせいする
たましいに、さんせいする
さいぼうのはたらきに、さんせいする
このはちょうに、さんせいする
2009ねん6がつ14にち20じ58ふん53びょうに、さんせいする
せんせい、ぼく、さんせいする
ぼく、さんせいしないひとたちにも、さんせいする
コメント
森昌子かと思いきや「ゆけゆけ二度目の処女」で歌われる「ママ ぼく でかける」を思い出した。あらゆるものに「さんせいする」のは、ある意味で自己が希薄な感じもするけど、逆にもっと大きな存在によって世界がすべて肯定されているのかもしれなくて、好きに生きてていいんだと言ってくれてるみたい。
トノモトショウさん、ありがとうございます。
森昌子!それはせんせい〜♪ですか(笑)
先生なのか宣誓なのかよくわかりませんが、すべてに「さんせいする」というのは、世界平和を実現するのと同じくらい難しいかも知れなくて、それでも「戦争は終わる、あなたがそれを望むなら」とも。
視座を上げれば上げるほど、自己から乖離していくこととのせめぎ合いみたいなことがこの詩でも起きています。
先生、宣誓、せんせい・・・・・・。
「さんせいする」うん。
ぼく、さんせいしないひとたちにも、さんせいする、というシメも好きです。
あと、じぶんがどのみちしねることにも、さんせい しますわたしは。
と、漢字をあえて使わないことで、「ぼく」を引き立てることが出来ていると感じます。
最後に、どんでん返しがあるのかな、とも思っていたのですが、一気に走り抜けたという感じですね。ストレートな詩のようでいて、…いや、一筋縄ではいかないぞ、と勘ぐってみたり。いろいろ考えてしまいました。
すべてが肯定されていると、感じられる詩ですね。
最後の各々の神の表現で、そのことを深く思いました。
みんなそれぞれ違うものに賛成しているけれど、それを包括して受け止める賛成があって、
とても広大な素晴らしいと思いました。
こしごえさん、ありがとうございます。
「じぶんがどのみちしねることにも、さんせいする」
この詩の一行に加えたいほど素敵ですね。
長谷川さん、ありがとうございます。
どんでん返しとか、最後に世界観をぶっ壊すみたいな構成も好きなのですが、今回のは全肯定したまま突っ走ることで、表で読んでもいいし、裏で読んでもいいし、みたいに読者に委ねてしまうことにしました。
そういう意味で、表現としての肯定と否定なんて、さほど大きな意味がないのかも知れませんね。
ザイチさん、ありがとうございます。
そういう風に感じてもらえて嬉しいです。
すべて肯定してくれる人や神がいたとして、その世界が素晴らしいと思う自分がいる一方で、時と場合によっては二律背反となって、どちら側にも賛成されてしまうと、「どっちなんだよ」と詰め寄りたくなる自分もいるというところが、人生のおかしみかも知れません。