トウメイ
重い扉を押して外へ出ると
道行く人は皆、透明であった
通行人A、まったく透明であり、透けて見える
彼の声も、透明である
ゆえに、彼の思考するものは不明である
通行人B、彼女は薄水色で透明である
全体に小さなあぶくが浮いている、その部分はしろっぽく見える
通行人C、彼は薄い色を変化させながら、歩いている
そのほかの人々もほとんど透明である
わたしは恐れた、このままだと世界も透明になるのではと
わたしは駅前の歩道橋にいた
そこから見ると、人々はほとんど「見えない」のだ
車やバスはいつものように走っている
しかしその中の人間はほとんど透明なのだ
たぶんこのままだと人間はすべて「完全な透明」になってしまうだろう
しかし透明な彼等からは、彼等自身はどのように見えているのだろうか
たぶん彼等も透明になりつつある彼等自身を知っている
しかしこの動きは止められないのだ
わたしは「少し先を」見ているだけに過ぎないのだ
人間は透明になる
その運命から逃げられない
そして物質として透明になることは
おそらく精神としても透明になると言うことなのであろう
それは我々が望んでいたことなのかも知れない
そうして透明になった「存在」とは「なにもの」であるのか
人間がすべて透明になってしまった時に
地球はどのように存在するのか
むしろこのように考えるべきではないのか
「存在は透明になる」
それが物質としての我々の運命ではないのか
そうして最終的には「この宇宙が透明になる」
しかしその時には「感情」とはなんであるのか
「意志」とはなんであるのか
必要なことは「あること」だとしたら
今はもう「あること」も透明になる
そして忘れ去られた
トウメイ。
コメント
私が小さい頃、東名高速道路ができました。最初「透明高速道路」だと思って、ワクワクしたものです。それはさておき、この「透明世界」はバラードの「結晶世界」のように鮮烈ですね。映像的にも観念的にも。
今「バラード」「結晶世界」について調べたところです。おもしろそうですね。今のところは、もっと観念的になりたいと考えています。あくまで希望ですが。
私たちはいつも半透明で、透明になりきる一歩手前を綱渡りしているのかなと思いました。
(自分も脳内で東名が鳴りました)
「半透明」であることが、喜びであり、また不幸でもある。詩に於いてはどこまでも「透明なわたし」でありたいと思います。コメントいただき、ありがとうございます。