手にて 書く 物はない
手にて 書く 物はない
何を 書いても 空しい
生きている 証が 欲しい
書くこと 考える ことが 好きらしい
何を 書いても 達成感が ない
私だけなのだろうか?
何故?
「私」は 何故 こうなのか
いくら 焦点を 絞っても
自我の 中心点に 当たらない
「私」の 自我は 空っぽか?
「私」の 自我には 中心点が ないのか?
「私」は 認知症の じいさんか?
「私」は 自己実現のために 何を 考え
何を 書いたら いいのだろう
昨日も 探していた
今日も 探している
しかし
手にて 書く 物はない
何を 書いても 空しい
私は 救われないのか?
神仏にではない
「人間」にだ
「私」は また 明日も 考え 書くだろう
それが 「私」が 生きることの 意味だからだ
笑われるのは 承知で書いている
いい歳をして 何を 青白い青年ぶったことを 書いているのだと
軽蔑 される ことも 知っている
だけど 何か 重用な ことが あるような 気がする
「私」の 知らない 重要な ことが あって
考え 書かなければ ならない ことが あるような 気がする
先人は 余りにも 多くの ことを 考え 書いていて
もう 「私」が 考えたり 書いたりすることは 残っていない気がする
そうなのだろうか?
みんな そんな 気がするのだろうか?
誰か 教えて 欲しい
私は 無駄な 空虚な 望みを 持っているのか?
明らめたほうが いいのか
諦めたほうが いいのか
「私」は 今日も ひとり 迷っている
コメント
何か、考えなければ、書かなければと感じる焦燥は少しわかります。
約2000年の日本語の歴史の中で、約20万年の人類の歴史の中で、自分だけが書くもの、自分だけがなすものを見つけるその果てしなさには気が遠くなります。
探し続けることが人生だ、と。知り合いの最期の言葉です。いつまでも見つからず、気づかないのかも。
お若いので仕方ありません。
これからの長い人生、有意義に過ごしてください。