定刻
外国人が多く出入りする地下鉄烏丸御池近くのビジネスホテルの一室で浴槽に湯を張る
浴槽の縁近くにある排水溝に湯が流れ込み始め、
おれは縁を越えて浴室の床に湯があふれないように慎重に身を沈めていく
つま先から肩、首からあごを越えてもっと、水面の下に沈めていく
丸めた背中が浴槽の底につきそうになるが、頭の先まで潜ると全身が
浮き上がる。明るい水底で暖かな浮力に身体が開かれてゆく、すぐに
つま先で鎖を絡め、栓を抜く。水面が下がるとそのぶん、浮力が減る
重さが戻ってくる感覚がおれは好きだ
おれがクルマを回すとプレゼンを終えた彼が後部座席に乗り込んできた
フランシスコは言った「脳をプラスチックにする」
一度作られた形は元に戻らない、最初は逆の研究だった、
ゼブラフィッシュやサラマンダーではうまくいった。脳の初期化。
あらゆる精神疾患から人類を解放する。老化も巻き戻せる。
大脳皮質のある動物では結果が逆になった。スーパー記憶力マウス。
一度見たものは二度と忘れない。皮質と神経核を固く結びつける
だから消すことができない
消せない記憶など何の役に立つ？
おれはクルマを走らせながら言った「受験生には受けそうな研究だ」
あなたの国の政府系ファンドが買ってくれたよ
そうか。おめでとう。
でも誰にそれを使うのかは想像したくない
消せないということは言葉にもできないということだ
言葉にしたものは記憶そのものではなくなる
言葉は記憶からおれたちを守ってくれる
浴槽から湯があふれ始める
重さの無い身体は抗いようがない
鮮明すぎて記憶なのか現実なのか区別がつかないほどだ
おれは右ウインカーを上げ、一時停止線でクルマを止める
コメント
人生の中の貴重な時間をかけて長い小説を読んだとしても記憶に残るのは印象的な一部のシーンだけだったりする。であれば短い詩の中に印象的なシーンを凝縮させたらどうだろう。などと考える、そんなあなたはゼッケン氏のこんな詩がお薦めだ。
@たかぼ
このコメントこそ、コメントマスターたかぼさんじゃなきゃ出来ない高度な技術ですよ、作者の意図を作者以上に的確に説明していると思ったら、いつのまにかお薦めされている。おそるべし。ゼッケンです。たかぼさん、こんにちは。
私は自分のこの手の作品を映画の予告編詩と勝手に呼んでます。
@ゼッケン
さん。わーい、ゼッケン氏にコメントマスター言われた。
予告編詩、良いジャンルですね。でも予告編が魅力的だと本編を見たくなってしまうんですな。
浴槽の栓のくだりに共感します。
助走から2連目の疾走に続くような流れと次々に訪れる言葉たちに昂りました。
@たかぼ
＞でも予告編が魅力的だと本編を見たくなってしまうんですな。
だって、それが予告編の存在意義だもの。しかし、たかぼさん、やめときなさい。こんにちは、ゼッケンです。
予告編より魅力的な本編は存在しない。予告編より本編の方が魅力的だとすると、それは失敗した予告編だ。
本編が傑作だからといって、魅力のない予告編をわざわざ作る配給会社はいやだ。本編なんて飾りです、偉い人にはそれが分からんのです！
@たちばなまこと
レジェンドからコメント来たよ。たちばなさん、こんにちは。ゼッケンです。
＞浴槽の栓のくだりに共感します。
とはいえ、身体が大きな大人になると家のお風呂じゃなかなかできないからね、水道代がかかるからね。
>助走から2連目の疾走に続くような流れと次々に訪れる言葉たちに昂りました。
これはゼッケンということで油断していたたちばなさんの不意を突くのに成功したもよう。
まだ、ハードルが上がってないゆえのご祝儀。
手の内は読めた、もうゼッケンじゃ昂らないと言われるまでハードル上げてくぞー。すぐに言われそうですが。