シャドウボクサー
少年の頃
目の前に立ちはだかる
でかい親父と向き合い
パンチの練習をした
額にあてられた、ぶあつい手に
視界を覆われ
打っても、打っても、届かない
小さな拳
「 ほれほれどうした、もっと打て 」
めくらめっぽう空を切る
届かぬ拳の上のほう
巨人の親父が笑ってる
大人になった今
親父の髪もうすくなり
パンチの相手も変わったが
あの頃
目の前に立ちはだかっていた
親父からのびてくるぶあつい手を
今も時々思い出す
「 ほれほれどうした、もっと打て 」
明日から
幕を開ける一週間
見えない壁に向かって
拳を打ち続ける
職場の門に、足を踏み入れる
タイムカードを、挿しこむ
音の無いゴングが
鳴りひびく
コメント
人生は戦いだ、とも言うがながながと生きてみるとそうそう戦いでもない。
ただ立ちはだかる親父はそんなことも教えてくれずただただ山のようにでかかった。痛かった。
でもやっぱりながなが生きてみると、親父のサイズも今の自分と変わらないのな。
そうそう戦いばかりでもなかったよ。
コメントをありがとうございます。 自分が頑張っちゃっていた(そのようにしか生きれなかった)頃のことをかきました。
確かに今は、生きるのは悪いことばかりじゃないと思います(^^)
父親と、ボクシングをしたことはありませんが、卓球はよくしました。ほれほれどうした、…という感じでしたね。今年、父親の享年に追いつきます。
現代の父親像と違う感じですね。いつまでも追いつかないところがあるようです。
ほれほれどうした
という言葉が、この詩の世界の中で、父親のパーソナリティや温かみをリアルに感じさせているようで、非常に効いていると感じました。
ありがとうございます。 たしかに、キャラクターは伝わると思います。 詩におけるリズムはやはり、大事ですね。
ぶあつい手ってすごく肌感覚として記憶に残るものですよね。
僕にとってのぶあつい手は父親のそれよりはAussieのhost fatherの握手が思い出されます。
手も人柄だよなぁと思わせてくれる詩でした。
あぶくもさんの大事な手の記憶も想起してくださり、ありがとうございます。手も人柄って、詩のフレーズになりそうな感じです。
最後の連、かっこいいですね。
日頃の僕はかっこわるいながらも、詩ぐらいは (^^)
自分のこだわった箇所の感想を、ありがとうございます。