ブルー

終わりの日は
とつぜんやってくるだろう

その日はきっと
雲ひとつなくて
空は気が遠くなるほど
青くて
美しくて
からっぽで

きみはきっと
さよならもいわないで
ぼくの前からいなくなるんだろう
跡形もなくきれいさっぱりと
まるで初めからきみなんて
どこにもいなかったみたいに
そして
ぼくはからっぽの世界に
ひとりぼっちで取り残されて
泣く

そんなふうに
いつか訪れる終わりに
花を手向けるように
さびしげな笑みを浮かべるとか
いつか訪れる終わりを
懐かしむみたいに
抱きしめるみたいに
切なく愛おしむとか
そういうの
今日はとりあえずやめよう

ここにおいで
となりに座って
何も話さないで
目をつぶって
手をつないで

いつかかならず
離すことになる手なら
なぜいま
つなごうとするの

きみはそう問いかける

終わらないものなんて
なにひとつない
すべては絶対にいつか終わる

でも
今日はまだ
その日じゃない

投稿者

大阪府

コメント

  1. この年になって、体調もパーフェクトでなくなってきて、自分と奥さんと、どちらが先にいなくなるのだろう、とか、どちらが先にある介護状態になるのだろう、とか考えてしまいます。
    看取られたい、という思いもあるし、看取られたい、という思いもあるし。いっそのこと二人とも同時に終わったほうが良いのかな、とか、それでもやはり奥さんには長生きしてほしい、とか。
    終わりのことを考えて生きるのは儚く、終わりのことを考えずに生きるのは、幸せでどことなく空虚で。

  2. @たけだたもつ さん
    少し変な話をします。
    人生をレストランに喩えるなら、死について考えるということは、皿の上の料理がなくなってしまうことや、満腹になって食べられなくなることを考えるのに似ているような気がします。
    それよりも、本当に自分がいちばん食べたいものをゆっくりと味わいながら、テーブルを共にしている人と会話を楽しんだり、料理の美味しさを心ゆくまで楽しむことに時間をかける方がいいと、年を経てからは考えるようになりました。
    興味本位でたいして旨くもないものを食べて胃を満たしてしまったり(時には思いのほか旨いものに出会うこともあるかもしれませんが)、あれこれと考えているうちに料理が冷めてしまったり、そんな無駄なことをしないで、ただその席に座って五感のすべてで食事を楽しむことが、私たちにできることなのではないかと思っています。
    テーブルを囲む人の中には、満腹になってしまったり、料理を食べ終えたりして、先に席を立つ人もいるでしょう。その人が「ああ、美味しかった。楽しかった」と言って幸せな表情で席を立って店を出ていくのを、笑顔で見送るのが、まだ料理と向き合っている者にできることなんだろうと思います。
    そして、いつかは自分もそんなふうに、自分の選んだ料理を心ゆくまで楽しんだと納得して席を立つことができれば、と思っています。

  3. ビュッフェ形式でいろんなもの食べた後に毒入りデザートで二人で死にたいです。

  4. @花巻まりか さん
    毒入りデザートを出してくれるレストランは、なかなか見つからないでしょうね。

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