不死の人
玄関先で死んでいる蝉が
朝早くから私の眼を覚まさせ
耳にその鳴き声をこびりつかせた蝉と
同じ個体とは限らない
しかし私の耳に刻印された
ジリジリという音が
傷一つない完璧な死体に変わって
転がっていることに気付く
騒音と沈黙
その対比は余りにも鮮やかだ
生と死
平凡な生の中に出現する死の
その余りにも鮮やかな
唐突さ
生きるということは連続的なもの
それは眠りによって断絶されながらも
記憶の上に成り立つ仮説
記憶のコンセンサスが崩壊すると
生命は断続的なものとなる
あたかも一瞬前の記憶を失って
窓ガラスを打ち続ける蠅のごとく
その時、死は消失する
死は連続する記憶の中にのみ
存在するものだから
意味を問うことによって
意味に縛られる
死を問うことによって
死に縛られる
人以外の生物に死はない
人以外の生物は問わないからだ
死とは、死を感じること
だから動物が死ぬのは一瞬
その瞬間に死は存在しない
しかし人は一生の間、死んでいる
または永遠に死なない
死は死者のものではない
生きて、悩み
そして考える人間のためだけに
存在するものだから
コメント
「考える葦」って表現は、人間はちっぽけだけど思考によって尊厳を得るという意味で割とポジティヴですが、死を想うという点では逆にネガティヴな志向でもあるんですね。昨日、ウチの奥さんは勝手口の前で生き絶えた蝉の死骸を摘んで、虫嫌いのオレに差し出して、洗濯物をたためと脅してきました。そんな時にこの詩を読ませて対抗すればよかったけど、お構いなしに蝉の死骸をちらつかせるだろうなとも思います。ああ、どうでもいい話になっちゃった。反語的なタイトルも良いね。
>トノモトショウさん。虫嫌いのトノモトさんと、虫を平気で摘まむ奥さん。その対比は余りにも鮮やかだ(^^)。微笑ましいトノモト一家の一幕を見せて頂きました。ありがとうございました。
死を起点として、生きること、さらに死ぬこと、記憶、現実、異界…。読後、いろいろ考えてしまいました。最終連の、死は死者のものではない、というフレーズの意味を、今もかみしめています。
>長谷川忍さん。深く読み込んで頂いてありがとうございます!
最終連その通りで、僕もいつも絶えず頭のどっかでそういうことが鳴っています。
死者にとっては時間もなければ健康への留意もいらず、医者いらず。
死に重要な意味があるのはただただ生者にのみですものね。
>王殺しさん。養老孟司さんも「自分の死、は存在しない。存在するのは家族や友人や好きな人の死のみである。さらに他の人の死は関係ない」と言っていますね。極論ですが、確かにそうですよね。