不

子供用リードに対する意見を読んでいて、お父さんもリードでつないでるお母さんがいないものかと画像を探してみたが見つからなかった。お父さんもこどももリードでつないで操作するお母さん。(写真左上から1・2・3は足の不自由な子供と親が合体したもの)

ああ、私たちは何処に存在する? ただますます拠りどころなく自由に、 糸の切れた凧のように 私たちは低空をとびまわる、風に吹き裂かれた縁のようにぼろぼろの微笑を浮かべて。
(「オルフォイスに寄せるソネット」リルケ/高安国世訳『リルケ詩集』岩波文庫)

言葉は魚のように噛む。
それを投げ返してやろうか
思考が尾ひれを振るあの海へと
矢のように自由に突き進ませて?
それとも 皿に引き入れようか
そこで韻を踏ませるために?
(「言葉」スティーブン・スペンダー/徳永暢三訳『スティーヴン・スペンダー全詩集』思潮社)

つひに自由は彼らのものだ
彼ら空で恋をして
雲を彼らの臥所【ふしど】とする
つひに自由は彼らのものだ

つひに自由は彼らのものだ
太陽を東の壁にかけ
海が夜明けの食堂だ
つひに自由は彼らのものだ

つひに自由は彼らのものだ
太陽を西の窓にかけ
海が日暮れの舞踏室だ
つひに自由は彼らのものだ

つひに自由は彼らのものだ
彼ら自身が彼らの故郷
彼ら自身が彼らの墳墓
つひに自由は彼らのものだ

つひに自由は彼らのものだ
一つの星をすみかとし
一つの言葉でことたりる
つひに自由は彼らのものだ

つひに自由は彼らのものだ
朝やけを朝の歌とし
夕やけを夕べの歌とす
つひに自由は彼らのものだ
(「鷗」三好達治『三好達治詩集』岩波文庫)

凡【およ】そ自由の使徒というものは常に私の気に食わなかった。
結局みんな自分のわがままを求めているに過ぎない。
多くの人を解放するつもりなら、進んで多くの人に仕えよ。
その難さを知らんと欲するか。ならば先ず試みよ!
(「ヴェニス警句」ゲーテ/高橋健二訳『ゲーテ詩集』新潮文庫)

強風に吹き消された炎が
消滅して自由になるように
聖者は束縛から解脱して
自由の境地に達する
あらゆる心象を超え
すべてのことばを超えて
(ダン・シモンズ/酒井昭伸訳『エンディミオンの覚醒』ハヤカワ文庫)

 1
笑う門には福来る
福の先には何がある?
苦しみの果てにゃなんにもない
なんにもないからやめられない
 2
平和ならそこら中で首振って歩いてる
捕まえて食わなきゃどうしようもないわけでもないのに
金がないだの自由がないだの
飢餓が知りたきゃ飢えりゃいい
 3
駄目なことの一切を時代のせいにはするな
駄目なことの一切を時代のせいにはするな
駄目なことの一切を時代のせいにはするな
のり子さんにケツ蹴り上げられろ
 4
ジャンガリアンが車を回す
同じ場所から何処へも行けず
ジャンガリアンが車を回す
脚をひっかけ自分も廻る

それはどんな韻律【リズム】でもとらえられない
それはどんな文字綴【シラブル】でもとらえられない
もつともつと大気を自由にして
もつともつと光線を垂直にしても遂にとらえられない
ああ 昨日までぼくのすべてが触れていたものを
いま水面にとり落とした櫂のように
ぼくの心の渦をひと廻りしてやがてぼくから急速に遠ざかつていく
(「櫂」嵯峨信之『嵯峨信之詩集』青土社)

聞きそびれた昨日の言葉は
夕空にかかる虹のように美しい
しかしその虹を地上にひきおろしてみると
それは一条の縄でしかない

風に吹き折られた青い小枝のような
あなたの言葉で
避暑地の海を掻きまぜてこよう
(「言葉」嵯峨信之『嵯峨信之詩集』青土社)

 死の恐怖を乗り越えないかぎり、人間には自由はない。だが、それも自殺によってではない。乗り越えるためには放棄してはいけない。苦い思いもなく、死を正面に見すえて死んでゆけることだ。

 自由とは、たとえぼくが容認している体制や世界のなかであっても、ぼくの考えていないことを擁護することができるということだ。それは反対者の道理を認めてやることでもある。
(アルベール・カミュ/高畠正明訳『反抗の論理:1942-1951 カミユの手帖-2』新潮社)

「どこへいけばいいのか?」「お前は自由だ」「盗み、女を犯し、人を殺す自由? あなたが父親を殺し、母親を妻とした時、自由でしたか?」

おれは胸をつらぬく未知の感情によって熱に浮かされたので、気を静めるため顔を長い間水につけた。息が切れ、水がしたたる顔をあげた時、おれはそれが自分の顔だと判らなかった。おれの眼に映ったのは、おれより美しく、より自由な表情をたたえ、おれには未知の深い喜びと苦悩を眼に浮かべただれかだった。
(アンリ・ボーショー/宮原庸太郎訳『オイディプスの旅』書肆山田)

あらかじめ死を考えておくことは自由を考えることである。

 われわれの精神は他人の言うところを信じた上でなければ動き出しません。他人の思想の欲するところに拘束され、その教えの権威のもとに奴隷となり捕虜となっているからです。われわれは手引き網にすがることに慣れ切って、もはや自由に歩む力を失っているのです。
(モンテーニュ/原二郎訳『エセー』)

詩・短歌・俳句・小説・エセー・論文・説明書・日記など、書き物の中でもっとも自由度の高いものは日記(予定表)だろう。読み返したときに自分だけが分かればいい日記は、文章や文字を記す必要すらない。たとえば、女性が自分の手帳に生理の印をつけるとき、誰かに見られた場合のことを考えて、自分だけが分かる記号を記すことがあるだろう。あるいは「会議」という文字が、ある日は赤文字で、ある日は青文字で書かれていたとして、この色は、赤は自分がプレゼンテーションをする会議で、青はそれ以外の会議だ、というような意味内容の違いは、それを記した本人にしか分からないものとなる。

自分だけが分かればいい印を書ける。これを超える自由度の高さを他の表現が持つことは不可能に近い。とはいえ、この「自分だけが分かればいい」というものも、実は「短期間の自分」であるということを忘れてはならない。大人になってから、小学生のころの自分が書いた作文や連絡帳を読み返したとき、何を表す記号なのか分からないことがある。これは、小学生の頃の自分は絶対に忘れないつもりで書いた記号であり、実際に当時の自分なら理解できる記号なんだけど、数十年の時を挟む間に忘れてしまい、結果、自分が書いたものなのに、自分にも分からないものになってしまったわけだ。パソコン時代になり、ログインするためのパスワードを書いたそのときは覚えているつもりでも、一年くらい使わずに再び利用しようとしたときに忘れていることと同じだ。自分だけが分かる記号・印は、必ずしも未来の自分が分かるわけではない。そこで、文章を書くことの大切さが生まれる。

ツイッターなんかで何気なしに書いている短文も、小中学生時代に習い覚えた決まりごとを使ってわれわれは文章を書いている。これは文章の決まりごとを学んだから使える情報共有といえる。

 私は今朝、納豆を食べた。
 今朝、私は納豆を食べた。
 私は奈良、ジャングルを食べた。
 鉄は蕎麦、山葵を貯めた。

最初の二つは誰にでも意味は通じるが、他の二つは意味不明の文章となる。散文・説明文といわれる文章は、日記に比べると自由度はかなり低くならざるをえない。では詩はどうか?

韻文という文章技法を使える詩は、散文よりは自由度が高くなる。極端にいえば、意味不明であったとしても、韻を踏んだ言葉遊びとして作品を成立させることが可能だ。もうひとつ、詩は、イメージを共有することができれば、意味不明であったとしても、なんらかの情報を伝えることが可能になる表現だ。

 閑さや岩にしみ入る蝉の声 (松尾芭蕉)

は、文字通りの意味を拾えば、岩に声(音)はしみ入らないし、蝉が鳴いているのに閑さを感じるというのはおかしなことといえる。けれど、この文章からは、つづられた意味とは違う情景を思い浮かべることが可能だ。へんてこな言葉の組み合わせから、叙情を感じさせることに成功した作品、というのが説明だろうか。多くの人に共通理解を促すための文章と、多数への働きかけはできないかもしれないけれど、自分に似た感覚を持つ人であれば伝わるかもしれない叙情を書いた文章と。小説をはじめとする散文は前者を使う必要性が高いのに対し、詩は後者を使うことも可能といえる。とはいえ、わけわかめな現代詩を書いてそれが「斬新」だとか考えている人たちについては、共通理解させるために生まれた文章というものをデタラメに並べた先に「斬新」さが生まれると考えているように感じる。そもそも、「斬新」やら「誰もやったことのない試み」やらを目指したいのなら、これまでに存在する他人の書いた作品を片っ端から読まねばならないだろう。「ならない」というより、それは必須条件だ。おりょ? また愚痴になってきた。私自身は「斬新さ」なんぞ目指してものを書いていない。「誰もやったことのない試み」は目指すものとしてはあるけれど、そこに行くにはそれ相当の厚みが必要になる。

創造的な文章は、既成の文章の観念や形式にとらわれない自由な発想からのみ生まれる。良い文章とは、
①自分にしか書けないことを
②だれが読んでもわかるように書く
という二つの条件を満たしたもののことだ。
(『高校生のための文章読本』筑摩書房)

一つの詩をどう読むかは、読む人それぞれの自由です。一つの「正しい読み方」があるのではなく、一人一人の読者が自分の読み方を自分の力で発見して行くのが、詩を読むということです。
 けれどもそれは、詩をどう読んでもいいということではありません。さまざまな「正しい読み方」があり得ますが、「どんな読み方でも正しい」わけではありません。
(柴田翔『詩への道しるべ』ちくまプリマー新書 37)

西田幾多郎が、「みずから」と「おのずから」が「相即」する「無心とか自然法爾【じねんほうに】とか云ふことが、我々日本人の強い憧憬の境地である」(『日本文化の問題』)と、あるいは、九鬼周造が、「自由の「自」は自然の「自」と同じ「自」である。「みづから」の「身」も「おのづから」の「己」もともに自己としての自然である。自由と自然とが峻別されず、道徳の領野が生の地平と理念的に同一視されるのが日本の道徳の特色である」(「日本的性格」)と、意識的に指摘していたことがらでもある。
(竹内整一『やまと言葉で哲学する』春秋社)

誰の目の前にもある人生を、芸術の鏡で鮮やかに映し出すためには、たとえ才能のある人にとっても、どれほど多くの修練、どれほど多くの沈潜が必要であるかということを、私はまだ知らなかった。そのために、私は誇張におちいって、いわゆる自由詩の形で、薄気味わるい解剖学や病気の詩を書き出した。

私がほんとうに変わりはじめたのは、もはや単に勤勉な学生として講義室や病室に出入りすることをやめ、自由な、しかし責任のある医師として、患者たちと直接対で接するようになった日からだった。その日から、保障つきの知識だけでは、もうどうにもならなくなったのだ。人間が人間に呼びかけてきた。そうして、神殿のあらゆる扉が、突如おのずから開くようになった。
(カロッサ/国松孝二訳『指導と信従』岩波文庫)

何かを明確にするというのは、難解な作品を排除するということとは違う。
難解な作品を紐解こうとしないくせに、多様性の自由を謳う。
あなたの立場からあなたの意見は正しく、わたしの立場からわたしの意見は正しい。
したがって分かり合えないのか、それでも分かり合おうとするのか。

自由美容をでかくした
ものすごくでかくした
ものすごくでかい自由美容だけれども
意味は不明である
けれどものすごくでかい自由美容である
なんのことやらわけはわからないけれど
ものすごくでかい自由美容である
#10秒で書く詩

何も気取らずに自由に私自身のことを語った。そのことで、誠実な人たちにはいささかの弁明も必要とはしない。だが、不誠実な人たちに対しては、彼らが虚偽の説をなせば、それは、この私自身よりも、彼ら自信の心情や精神のほうが傷つくのだ。そのことを思い知らせてやれば、それでいい。
(シェリー/石川重俊訳『鎖を解かれたプロメテウス』岩波文庫)

この世界の政府は、テクノロジーの力と知的自由とをかちとるために、過去を非合法なものと定めていた。/略/伝統、習俗、歴史、あらゆる古い習慣、やり方、形式、作法、思想、信心からの解放を宣言したコーポレーションにとって、信仰は、害毒の源、焼いて埋めてしまわねばならぬ腐乱死体だった。
(アーシュラ・K・ル・グィン/小尾芙佐訳『言の葉の樹』ハヤカワ文庫)

こうするのだ、ルキリウス、まず君自身のために自由にせよ。これまで君から奪われ、盗まれ、こぼれ落ちていった時間を拾い集め、しっかりとそれを守れ。(略)時間のあるものは我々からもぎ取られ、あるものは横領され、あるものは空しく流れ去ってしまっている。中でも最も恥ずべきは、怠慢による喪失だがね。

僕は今、ルキリウス、自分がさまざまな過ちから自由になっただけでなく、自分が変ったと感じている。変えられなければならないものが僕の中にはもはや一つもない、などと言うつもりはないし、そんなことは望むべくもないことだ。集め、弱め、強化せねばならぬものが、まだ僕にはたくさん残っているさ、むろん。だが、まさにそのこと、以前は知らなかった弱点が見えてきたということこそ、僕の心が善い方へ変化したことの証明なのだ。自分は病気なのだと自分で気がついた病人には、おめでとうの言葉をかける。

我々は現在の出来事によって苦しめられているのか。それとも未来のことでか。現在・未来の二つのことでか。現在のことならば判断は容易だ。君のからだがいま自由であり健康であって、なんらかの病因による苦痛が存在しないならば、未来がどんなものかは容易に見てとれる。今日のところそこに悪いものはなにもない、と。
 「しかし、未来に何か起るかもしれないではないか」と君は言うか。だったら、まず、不幸がやってくるという確かな証拠があるかどうか、そのことをよく調べるんだな。というのは、我々は大抵の場合、(事実よりは)憶測で苦しむものだからだ。

世の中での仕事が多すぎるので、自分は自由な人間にふさわしい学問に専念するのを妨げられているんだという印象を与えようとする人たちは、嘘をついているのだ。彼らは世の中での仕事を口実にし、それを誇張し、自分で自分の時間を盗んでいるにすぎない。

自然はいかなる悪徳にも我々を導かない。純潔で自由なるものとして生んでくれたのだ。
(セネカ/中野孝次訳『セネカ 現代人への手紙』岩波書店)

会社ってものはみんなそうだが――ひとりでは手におえない仕事をするために、組織を作っただけのことなんだ。神様どころか、まるっきり生き物でさえない。答えようとする自由な意志もないんだ。結局のところ、働いている人間の集まりに過ぎないんだからね。

自由になるってことがそんなに大事なことなのか、あたしよくわかんない。レオはそういったけど、誰にとっての自由なの? わたしのじゃないわね。会社のために働いていたほうが自由な時間があったもの」/(略)/「彼が自由といったのは、自由な時間という意味じゃないと思う」(略)「生き残る、といったほうがいいみたい。つまり――その気になったら、いつでもあたし達を撃ち殺す権利を持っているような人のためには働かない、ってことじゃない?」(略)「これからも働かなければならないけど、それは自分たちのためよ。そして子どもたちのためよ」

「銃をもった地上人よりもこわいかもしれないね、自由ってものは。
(ロイス・マクマスター・ビジョルド/小木曽絢子訳『自由軌道』創元SF文庫)

何よりもまず気を散らさぬこと、緊張しすぎぬこと、自由であること。
(マルクス・アウレーリウス/神谷美恵子訳『自省録』岩波文庫)

法案反対もデモも自由だけど、「強行採決」という言葉を使う意味が分からない。与党が法案を通せる議席数を持っているのは、投票者による投票行為の結果であって、それを否定するのであれば民主主義から否定しないといけなくなる。祭りみたいなデモをしてうっぷんを晴らしたところで、投票率が上がらないのならまったく意味などない。なんだろ? いまの与党(自民党)に誰が投票したと思ってるんだろ? 一票の格差問題があるのは知ってるけど、50%に満たない投票率しかないのに、なにに文句を言ってるのか? という問題提起にはならない。さらにこんどは「多数決は民主的なのか?」みたいな話まででてくる。なら君主制にすりゃいいのか、と言う話にはならず、でも、党首・首長をファシスト扱いはする。いまの日本は、すべての国民(次から18歳以上)に投票権が認められていて、不正も行われるような状況下にないのだから、党首も首長も選挙で落とすことができるわけだけど、なぜかそこには触れない。自分の身のまわりの人たちに「投票行った?」という話をすることからはじめるべきではないのか。

自分で自由に選べるというものではないんだ。幼いころ仕こまれたものは、ふりすてることは不可能に近いものだ。

きみは自由な思想をもった人間のつもりで、悪い掟は破っている。ところが、自分にとって新しい性倫理の問題にぶつかると、きみはそれを同じユダヤ・キリスト教の掟に照らしあわせてテストする……そこで自動的に、胃袋がでんぐりがえり、それが自分が正しくて彼らがまちがっている証拠だと考える。いやになっちまうよ!

ひとを殺すことはなんとも思わないんです。しかし、彼は極端な無政府主義者で、人間をとじこめることを悪と思うんです。自我の自由――完全に自我の責任ですね。
(R・A・ハインライン/井上一夫訳『異星の客』創元SF文庫)

詩が内容の上にも形式の上にも長い間の因襲を蝉脱【せんだつ】して自由を求め、用語を現代日常の言葉から選ぼうとした新らしい努力に対しても、無論私は反対すべき何の理由も有【も】たなかった。「無論そうあるべきである。」そう私は心に思った。しかしそれを口に出しては誰にも言いたくなかった。言うにしても、「しかし詩には本来或る制約がある。詩が真の自由を得た時は、それが全く散文になって了った時でなければならぬ。」というような事を言った。私は自分の閲歴の上から、どうしても詩の将来を有望なものとは考えたくなかった。会々【たまたま】それらの新運動にたずさわっている人々の作を、時折手にする雑誌の上で読んでは、その詩の拙い事を心潜かに喜んでいた。
 散文の自由の国土! 何を書こうというきまった事は無くとも、漠然とそういう考えをもって、私は終始東京の空を恋しがっていた。
(「弓町より」石川啄木『日本文学全集 12 国木田独歩 石川啄木集」集英社)

「国民をバカにしないでください」 SEALDs奥田愛基さんが国会で要望(全文)(弁護士ドットコム) – Yahoo!ニュース http://t.co/CoGBUyjlI7(注:記事は現在は読めない)
だから選挙に行けとしか言えないのよねえ・・・
「自由と民主主義」で選ばれたのが、今の与党なんだけどね。

思考を停止した先に平和などない
あるのは与えられた平和だけ
声を出せばそれが立派な行動だと勘違いしていないか?
与えられた平和がその自由を保障して
やることやれることにたいした個人差などない
変えうる力点はどこにあるのか?
思考を停止した先に見えるものなどない

「どんな決断も、その逆を伴うというのなら」オスカーが言う。「それは決断ではない。お前が自由意志の根拠だとしているものがなにか、わかるか? 豚と同様に振舞う許可だよ」
(ユーリ・ツェー/浅井晶子訳『シルフ警視と宇宙の謎』早川書房)

携帯電話をぶら下げて出かける
電源は入れない
自由を満喫する

携「めったにかかってこないじゃん」
誰にも邪魔はさせない
帯「そのわりにちょくちょくきにするやん」
うるさい、誰にも邪魔はさせないのだ
電「それならおいていけばいいのに」
話「わすれたってとりにもどったからね」

自由を満喫したい
けれど
携帯電話を持たずに出かける
ことなどできやしないのだ

「自由」というものは本当に難しい。真の表現の自由というのは、自分の気に入らない表現も受け入れるということだからね。極端に言うと、個人への誹謗中傷をする表現の自由もあるということにはなる。そのあと裁判になり、有罪になりというのは「表現の自由」とは別の問題ということだ。これは、書き手が特定の個人を侮辱したことにより有罪になるわけで、その内容を文字に書くことが罪になるわけではない。

言いたいこと・書きたいことなんかない、をちょいと真面目に考えると、それは「何でも書ける」ということにもつながる。物理法則を受け入れているから、手からコップが落ちるということを書くのであって、そこには「実体験として持っている情報を使った展開を書く(書きたい)」という不自由さがある。自由というのは「何でもあり」とも言えるんだけど、では「何でもありなことを書いてみよう」と言われても、たいていの人が書く「何でもあり」とは、どこかで見知った魔法世界の下手な真似事にしかならない。「自由に空を飛ぶ」ことを想像するとき、鳥・虫・飛行機・ロケット・スーパーマン風の飛び方以外を想像でき、かつ誰も考えないような飛び方をいくつ想像できるだろうか?

ハエのように大空を飛びたい!
だとか、
自由自在に空を飛ぶハエの翅ばたきにあこがれる!
だとかは言われない
ハエよハエ
昆虫は四枚の翅を持っている
アリは翅を退化させただけで女王には翅がある
ハエは四枚の翅を二枚にして
残りの二枚を平均棍に変えてジャイロスコープとして使っている
飛ぶことに関しては最も優れた生き物の
人間に嫌われることの度合いは鳥類には見られない
垂直のガラスにとまり
天井にひっくり返ってとまり
肢を拭う
いろんなものを食う
死肉に群がる
糞に集る
けれどハエがいなければ
腐ったものが分解されることはない
ハエよハエ
flyはハエ
フライ級はハエ級
モスキート級は蚊級
「ハエ組みのみんなはこっちに集合!」
「カ組みのみんなあつまれー」
「ヘビ組みのみんなでダンスするよー」
なんてことにはならない
ハエよハエ
あの素晴らしきハエの飛翔!
自由自在な空中での方向転換そのすばやさ
助走もいらない
どこからでも飛び立てる
飛べ飛べハエよどこまでも
ハエよハエ
蜘蛛の巣の間隔は
ハエのサイズを基にして作られてるという
説も確かにうなずけるほど
うじうじと溢れ出す生命
ぶいぶいと鳴らしだす翅音
いろんなところに飛んでく代わりに
いろんなところでみんなに食われる
大空を飛ぶハエたち
ハエよハエ
ハエの王子様
白馬にたかったハエの王子様がやってくる
ハエのおじさま
肢の長いハエのおじさま
生え抜きのハエ
すなわちヌキ
栄えぬきのハエタタキ
すなわちヌキタタエ
ヌキを讃えよ
ハエタタエ
ハエた滝
ハエ多々樹
ハエの生えた樹
這え生える栄えたハエ

わたしの父は、川島直美と同じ、胆嚢・胆道がんで、これは抗がん剤の効果の見込みが少ない癌だという説明を医師から受けた。そして、効果は少ないけれど、抗がん剤を投与した場合、健康な細胞も破壊される恐れがあることも聞いた。抗がん剤投与(治療)を受けない・選択しない自由。父と私や親族が選択したのは抗がん剤治療だった。しかしそれはうまくいかず、抗がん剤投与により、それが父の背骨を溶かしてしまい、立ち上がることができない原因になったようだ。それは仕方がない。「仕方がない」という物言いを嫌う人もいるだろうけれど、そんなこといっても、それは現代医療では治せないものだということに変わりはない。

銃殺されるために、銃口の前に立たされた男が、はたして本当に自由かどうか。その時考えた自由は、普通の自由とは全く違う自由です。しかし彼にとっても自由があるとすれば、そこにこそ自由があって、とてもつらいものであった。
(石原のインタビュー『一期一会の海』より『石原吉郎 シベリア拘留詩人の生と詩』細見和之 中央公論新社)

地下室に下り、閉じ込めていた妖怪たちに会いに行く。
猿轡を取り、縛っていた縄を解く。
先生が亡くなったことを伝えると、大騒ぎになる。
「やつが死んだ!」
「これで俺たちは自由だ!」
そう、きみたちはこれで自由になる。
けれど、きみたちのことを伝えてくれる人はもういない。

自由意志は天の影響との戦いのため
初めは苦闘するかもしれないが、鍛えられれば
やがてすべての障害に勝つはずです。

人々のなかに燃えるすべての
愛は必然的に燃えるのであっても、人々には
またそれを抑える力もあるわけである。
ベアトリーチェはこの貴い力を自由意志と
呼んでいるのだ、

今後は私の言葉や私の合図を期待してはならない、
きみの自由意志は正しく、健康なのであるから、
その命ずるままにおこなわないのは誤りだ。
(ダンテ/野上素一訳『神曲』筑摩書房)

たくましい詩想をもって 自然が、
毎日奇怪な子供をみごもったころ、
ぼくは、女王の足もとで、官能的な猫が戯れるように、
若い巨きな女の傍で、暮らすのを喜んだことだろう。

彼女の肉体と魂が ともに花ひらき、
恐ろしい戯れのうちに自由に育つのを眺め、
胸に 暗い恋の炎を 秘めているかどうかを
ぼくはその目に流れる しめった霧から判じただろう。

豊かな肉体の上をゆっくりと 歩き回り、
巨大な膝の傾斜を 這いのぼり、
また 夏は時おり 不健康な太陽に照らされ、
疲れて彼女が 野原に長々と 寝たときに、
ぼくは山麓の平和な村里のように、
その乳房の影にのんきに 寝るのを喜んだことだろう。
(「巨きな女」ボードレール/佐藤朔訳『ボードレール詩集』白凰社)

台風が来ているお昼前ごろ、イオン店内にある郵便局にはお母さんに連れられた天使たちがたくさんいた。母に手をつながれている天使はおとなしくしているものの、自由をゆるされた天使たちはあちらこちらで探索を始めている。天使たちはひと時もじっとしていない。母に怒られる場合は別だが、周りを見て、自分と同じ仲間たちが探検をしていることが分かれば、自分も遠慮なく探索を始める。わたしの前にいた双子天使の片割れが壁をドンドンと叩いた。すると片割れが「たたいちゃだめだよ」と嗜めた。彼らの性格はどこで分かれたのだろう?

糸の市
士の仁
指の算
詩の師
詞の誤
史の録
死の質
子の鉢
旨の休
志の自由

たとえば林檎についていだきうる見解の相違。食卓の上の林檎を近々と見るためには首をのばさねばならない少年の見解と、林檎を手に取つて自由に客に供しうる主人の見解。
(フランツ・カフカ/江野專次郞・近藤圭一譯『カフカ全集Ⅳ』新潮社)

放送の自由のない言論の自由などゼロに等しい
(エズラ・パウンド/新倉俊一訳『ピサ詩篇』みすず書房)

自由よ、戦場の空気が染めなおしたかもしれなかった
  赤と青だったおまえの衣……
七月の自由! 神々しい胸の女
  その身体は尻尾になって終るのだ!
(「マエヘ ススメ!」ネルヴァル/篠田知和基訳『ネルヴァル全詩』思潮社)

人間、自由に物思うもの! 物思うのはおまえだけだと思うのか
命が万物にはじけるこの世の中で?
おまえの自由は手中の力を思いのままにしても
そのいかなる教えにも「世界」は不在だ。
けだものの中にも精神のうごめくのを畏れよ……
すべての花は「自然」の中に花咲く魂
愛の神秘が金属の中に休らう
「万物は感じる!」おまえに対してすべてが力をふるう!

恐れよ、盲いた壁にも見守る目があり
物資にさえことばがそなわる
それを不純な用に役立てるのではない!
ときに卑しい存在にも神が隠れて棲んでいる
そして、まぶたに覆われた生まれたばかりの瞳のように
ひとつの純粋な精神が石の殻の下に萌えいでる!
(「黄金詩」ネルヴァル/篠田知和基訳『ネルヴァル全詩』思潮社)

狙いは決して
はずさない

怠け者
  みんな怠け者
詩人
  自称詩人
自称王様
自称自由
自称
  ヘニスから自由
自称
自称
  自称猫のクソ
  自称嫌な奴
  自称 俺
(「コーラス 一三一」ジャック・ケルアック/池澤夏樹・高橋雄一郎訳『ジャック・ケルアック詩集』思潮社)

あなたの敵は
あなたしかいない――
囚われの身は単なる意識――
自由も同じよ
(「どんな拷問も私には苦しくはない」エミリー・ディキンスン/水崎野里子訳『英米女性5人詩集』竹林館)

口にして 心地よく すばらしい
「自由【フリードム】」 というような 言葉がある。
ぼくの 心の弦に 自由は うたう
毎日 一日じゅう。
今にも ぼくを 泣きださせる
「自由【リバーテイ】」 というような 言葉がある。
ぼくの知ってることを きみ 知ったなら
何故だか きみは わかるだろう。
(「アメリカにおける亡命者」ラングストン・ヒューズ/木島始訳『ラングストン・ヒューズ詩集』思潮社)

ひとつの夢がいまこの国で
壁に背をむけている。
いろいろ泥だらけの名前でその夢は
耳なれない呼びかたをされることがある。

この夢は俺たちだけの
ものだって云いはる連中がいる――
わかってるんだ、償いをしなきゃ
ならないひとつの罪というわけなのだ。

みんなが分けもたなければ
日光のようにまた空気のように、
その夢はいつどこでだって
中味がなくなり死んじまうのだ。

その夢は国境も言葉もしらない、
階級も人種もしらない。
どこか一箇所にその夢を
がっしりと閉じこめておけるわけがない。

今日この夢は戦列を組み、
壁に背をむけている――
一人のためにその夢を救うには
万人のためにそれを救わねばならぬ。
(「自由の夢 一九六四年四月一日、とくに全国黒人向上協会のために」ラングストン・ヒューズ/木島始訳『ラングストン・ヒューズ詩集』思潮社)

わたしの神は若死した。神を崇拝することなど
品位を下げるし、崇拝の根拠も不健全だと思ったからだ。
自由人には神など必要ない。だが、わたしは自由だったのか?
わたしは自然に夢中になっていることを何とふんだんに感じていたことだろう
子供らしいわたしの口はあの黄金色のペーストの
半分魚の、半分蜂蜜の味を何と愛していたことだろう!
(ナボコフ/富士川義之訳『青白い炎』岩波文庫)

臆病な考えや、
不安なためらいや、
女々しい足ぶみや、
あわれな訴えは、
すこしも悲惨をすくうことができぬ。
決してきみを自由にせぬ。

暴力に抗して、
つよく立ちあがり、
屈服をいさぎよしとせず、
あくまでも戦いぬいて、
初めてきみは、神聖な神々の
救いの手をよぶことができるのだ。
(ゲーテ/大山定一訳『世界詩人選01 ゲーテ詩集』新潮社)

ぼくは軍帽を脱いで
鳥籠の中に入れ、鳥を
頭にのせて出かけてみた。
部隊長に会ったら、彼は「どうした!
おまえ、敬礼しないのか!」と怒鳴った。
「そのとーり、もう敬礼なんか
しませんから」と鳥が答えた。
「そうか、そういうことか。おれはてっきり
敬礼はするものだと思ってたけど……」
部隊長がそういうと、鳥はこう返したのだ。
「今回は許してやりましょう、だれにでも
勘違いってあるからさ」
(「兵士の自由」ジャック・プレヴェール/アーサー・ビナード訳『もしも、詩があったら』光文社新書)

人とも 神とも 思へるあなた、
 至上の 至誠の人格であるあなた、
 わけは知らぬが、私たちの意志は私たちのもの、
自由意志こそ あなたの御心に適ふだらうから。
人の世の小さなさまざまな理論も宗派も、
 或る時は榮え、或る時は滅びる。
 そんなものは、あなたの光の屈折光線にすぎない、
そして あゝ主よ、あなたはもつと偉大なのだ。
私達は信仰を持つだけだ、何も解らずに。
 知性は 私達の目に見える ひとつの現象だが、
 しかし私達は信じてゐる、知性はあなたの御惠、
暗闇を貫く一條の光明であることを。
知性に光をあらしめよ、いよいよあかるく。
 心には敬虔の念を宿らしめよ、いよいよ深く。
 知性と靈性とが諧調を奏でて、
昔の通りに、そして一層響も大きく 和音を鳴らすために。
(テニスン/入江直祐訳『イン・メモリアム』岩波書店)

着付けができての着崩しだし、五七五という枠があっての字余り・字足らずであり、句またがりなんだよね。スポーツの理論を詩歌への比喩として当てるのは不適当なのかもしれないけど、戦術(型式)を理解した上で、臨機応変さが生じているのか否か。自由詩を、なんら意図せず好きに書くことができるという意味で「自由詩」と呼んじゃってるものは、あまり魅力を感じない。自分で作った(と思い込んでいる)パターンと同型のものばかり作るのも、魅力は感じなくなっていく。むずかしいじょ。しは。書くのは簡単なんだけどね、どう書いてもいいわけだから。でも、書いたものが効果を発揮しているかどうかを調べ(?)ながら作っていくと難しくなる。私は、詩を「書き作る」って言い方をよくするんだけど、瞬間的に捉えた言葉を、たとえばツイッターでつぶやくのが「書き」で、それを改めて詩として作る作業をよくしている。で、そういうものを現代詩フォーラムなんかに出す。で、これの規模をさらに大きくしたくなっている。たとえば「#てんしのかきかた」をコンセプトに一冊の本くらいのまとまりにする。それにイラストも足せたら尚よしやなあ。

「本来のグロム人は、すべて、無定形に生まれついているのですよ!」
「そして、無定形に生まれついているからには、すべてのグロム人は、体形の自由をもたなければならないはずです」

体形の自由――それは、奇妙な思想だった。心をかきみだす思想……。
 そして、明らかに、無定形神の誘いの手なのだ!
(ロバート・シェクリイ/福島正実訳『人間の手がまだ触れない』ハヤカワ文庫)

法律違反に該当する行為をしているわけでもないのに、やれ「忖度」だの「圧力」だの言って攻撃している自分たちの行為が、いかに罪のない人を差別していることなのかが分かってないのだろうね。まあもちろん、ツイッターで何を書くのも自由な国ではありますが。

反体制は反対せえ!ってことかなと思っとったんやけどな、そうではないみたいでな、なんにでも反対するアンチなわけでもなくてな、自分らの気に入らんものには反対するってだけの話みたいでな、その偏った先に自由があると思ってはるみたいやわ

まあ、ろくすっぽ調べもせず、言いたいことだけ言うっていうのもアリやけどね。リベラリズム・自由主義者なんやったら特にね。でもそうすると、ヘイトスピーチも自由ということになるんやけどね。殺し殺される自由もあるべきだ!とかね。

最初に刺されて最後に食べられるみどり色
最後に刺されて最初に食べられるぴんく色
「どっちが一番だ?」
「これは色差別だ!」
とけんかしている色団子に
挟まれているしろ色は
最初にかじられることがあることを知っている
こどもたちは自由に食べる
#三色団子

自由なんざ頭の中にあればそれでいいのであってね
現実の世の中に出現したらたまったもんじゃないよ
道を歩けば誰かに石を投げられ
自動車はじゃんじゃん人を跳ね飛ばして進み
どうにか駅に着こうにも、「初乗り10万円ね。いやなら帰りな」つって通せんぼくらう
もちろん、そいつらを殴りとばす自由もありはするけれど
殴り返される自由だってあるわけだ
そんな世の中になったら
誰が働いたり税金を納めたりするもんか
水道もガスも電気も止まり
確保したねぐらだっていつ誰に取られるかわかりゃしない
性善説で考えるか性悪説で考えるかっつったって
平和と自由とは相性が悪いものでね
力で奪える自由がある世の中には平等なんてあるはずもない
自由 
自由 
自由 
平和な日本に暮しているからって
何も考えずに車道の真ん中を歩いたりするのかい?
コンビニの裏口から店に入ったり
男が女子便所で女が男子便所で用を足したりするのかい?
そういう不自由さを当り前に受け入れときながら
自由を求めるあんたの思想は本物なのかい?
不自由
不自由
不自由
武装もせずに夜中にコンビニに行き
誰かに盗まれることを心配することなく駅前に自転車を預け
場所によっちゃあ
自転車のかごに商品を置いたまま買い足しをしに店内に戻る
平気
平気
平気
な顔が下を向いて街を歩いている
おまえ
おまえ
おまえ
は平和な国にいることが当り前だとでも思っているのかい?

「なんという意地の悪い女なの!」

「それは、彼女の男をあなたと分け合おうとしないからなの?」

「彼女の男? 彼女の男ですって……まあ、あなた。わたしたち自由人のあいだで使うためには、クイーンズ・イングリッシュも改革が必要になるわね。(略)どうしてわたしたち、人間に対して“わたしの”とか“彼の”とか“彼女の”とか所有格の言葉を使えるの? わたしたちはテーブルや椅子みたいに所有できるものなの?

あまりの多くの女性が、姦通ということで殺されてきたんですもの。姦通よ! もし神が愛なら、どうして愛が罪になり得るの? もし神が無限なら、どうして愛は、人間の法律という小さな檻の中に閉じこもっていられるの? 愛は風のように、その意志があるところに吹くわ。そして、雨のように、その意志があるところに、意志を示したものの上に降るのよ!」
(レイ・ファラディ ネルスン/矢野徹訳『ブレイクの飛翔』ハヤカワ文庫)

俺は安くないぞ
高いんだぞ
だいたい安ってなんだ?
自由じゃないから不自由で
用心してないから不用心なのに
今日の僕は安だ、たっぷり安だあ
なんて言わないだろうが!

不安と書いたシャツを着た青年が叫ぶ
不満と書いた靴を履いた青年がそれを見てる

まあ、いまよく言われている「リベラル・リベラリスト・リベラリズム」なんて、ちっとも自由主義(者)ではないけどね。これも、日本独自の意味を持つカタカナ英語になったんだろね。

車道の真ん中を丸裸で歩いていく男と女
そんな想像をしたことのないあなたが
ひとは自由に生きるべきだとうたっている

丸裸の猫が車道の真ん中を歩いていく
彼らはメスを求めてさまよい他のオスと喧嘩して
ひどい怪我をしてそのまま死んでしまうこともある

言と動って違うんだよね。言うことは動くことに含まれているけど、差別的なことを言うだけの人と、何も言わない代わりに差別的なことをする人と、どちらが問題なのか? あるいはましなのか? これは自由の難しさにもつながる。発言の自由と行為の自由は違うからね。

暴言の足立氏は公約通り辞任せよ #BLOGOS https://t.co/Eqial5xaIX(注:記事は今は読めない)

あれまあ、「日本死ね」はよくて「朝日新聞、死ね」はあかんという意見の自由ですか。ほんま、自由というのは難しいし恐ろしいのよね。

毎日そこにかえる
かえる場所はお前の巣
居心地の良さも清潔さもお前の自由

毎日そこにかえる
かえる場所はお前の延長
居心地の良さも清潔さもお前の延長

毎日そこにかえる
かえる場所にお前の子を
かえすとしたらなにをどうする?

実感したいです 喉元過ぎればほら酸いも甘いもどっちもおいしいと
これが人生 私の人生 鱈腹味わいたい 誰かを愛したい 私の自由
この人生は夢だらけ
(椎名林檎「人生は夢だらけ」)

反自民:まあ、どの政党を支持するかは個人の自由や。
反与党:政権を担う党に反対するっていうのは、どういう理屈なんやろ?
反政府:リベラル・自由主義という考え方をするのは勝手やけど、法は誰が決めるんやろね。例えば信号や交通速度。あと、富の再分配は無くすってことか?
反体制:独裁者になりたいってことか?
反権力:言いたい事はわからんでもないけど、なら『○○反対!』ってデモしたことに従ったら、それもひとつ権力にはなるわな。
反多数派:男子トイレと女子トイレを同じにするとか言われたらどうすんねん?
アンチ、アンチって騒いでるけどな、
それはお前の気に入らんシステムに反対してるだけとちゃうんか?
個として生きたいんやったら、他人のすることになんで目くじら立てるねん?
ほんで他人を晒しもんにする魔女狩りみたいなことやって溜飲を下げるのは、非国民つってかつて非難したやつらとどう違うねん?

つうか、「アベサイテー、詩ね!」とかって書いても平気な国に住んでるのを、当たり前とか思いすぎなんとちゃうやろか? そんな自由が許されている社会はこれまでの人類史の中でどれくらい特異なことなのかを考えたことがないんやろか?

しがつよっか
よんがつしか
しがつしか
よんがつよっか

詩×思で自由録
詩を書け仕掛け自由rock you!

昨日は、あべのハルカスでやっている太陽の塔展を見てきた。館内は撮影自由。入ってすぐにあった展示物には囲いがなかったので、なにも考えず手で触って写真を撮ったら、「さわらないでください」と、係の人に怒られた。といっても苦笑いで軽く注意されただけだけど(写真4)。

自分だけが理解できればいいという、たとえばスケジュール帳に書くメモだとか日記だとかを除けば、言語表現では最も自由度が高いことができるのが詩なんだから、詩なんざ自分の好き勝手に書けばいいのよね。ただし、「詩で説教するんじゃねーよ」という意見と同じように、「うじうじとつまらぬ自虐ばっかり書いてんじゃねーよ」という意見もありなのよね。でもなぜか、説教の方は「詩はそういうものじゃない」という意見がまかり通るのに対して、自虐的なものは心の叫びとして受け入れ(同情?)られたりすることの不思議かな。

ラーゲルクヴィストの戯曲を借りた時に、オクタビオ・パスの『弓と竪琴』を再読したら、めちゃくちゃ分かりやすくて納得させられる詩論が書かれていて頭がすっきりする。詩は「自由に読めばいい」とか、「どう読んでも間違いではない」とかいったような、曖昧な物言いから先に行こうとしない物言いより、さまざまなものを目にし、それを比較検討し、その結果として自分はこう思うという物言いの方が私は好きだ。

詩人なら、もっと基本的なことからちゃんと考えるべきだと思う。何でも自由に読んでください、も有りかもしれないけどね。なら出鱈目も有りになっちゃうのよね。

そもそも自分が使っている言語とは、すでに社会の中で共通理解するものとして使われているものを反覆して覚えているのであって、それを使って、共通理解することはできないけれど、なんか面白い表現ができるという順番なんだけど、なんか、自由に使えるのが先にあるかのように言ってる意見は、私から見ると滑稽に思えるのよね。それは順番が違うよ、と。自由に使いこなせるというのは、最後にあるものだよ、と。

いつものんきでものぐさで、
すねの骨が焦げるまで、
動きもしない怠け者、
こんなめでたい阿呆はない。

いつも自由の身と思い、
不幸が戸口に来たときに、
はじめて首を外に出す。
(セバスチャン・ブラント/尾崎盛景訳『阿呆船 下』古典文庫)

自分の好きなものはもう知っている
外からの押しつけはもう結構
うるさい
うざい
めんどくさい
手元にある情報だけで
中は充分潤っている

とんがった蠢きの中で
不自由そうな自由が育つ

とにかく変身していた
虫になり獣になり
機械になり大きくなり
悪を退治していた

やがて正義がなくなり
悪者って誰だ悪人って誰だ
悪事って何だ悪党って何だ
自分のすることも悪じゃないのかと問いだした

ヒーローはもうどこにもいない
似た顔をした多様星人が自由を叫んでいる

ちゃんと追いかけてないから詳細は知らないけど、フォローさんのリツイートで読んだ幻冬舎のもめ事はちょっと面白かった。同業者(作家)が同じ出版社から本を出している他人の批判をする自由は謳うくせに、出版社側が実売数を言うのはダメなんやね。それはどんな自由なのか? 給料や店の売り上げを他人がきいたりすることは失礼という常識はもちろんあるんだけど、喧嘩のきっかけは作家側が作ったわけだから、自分が喧嘩を売ったことに対する仕返しで実売数を出されのに、「それは、言ってはダメでしょう」ってなるわけだ。なんやろね、この意識のずれって。謹呈文化を否定するくせに、自分が誰かから本をもらうのは平気だったりする感覚と似てる。出版社側は権力者であり、だから何を言われても反省しなくてはならなくて、作者側は何を言ってもいい自由を守られなくてはならないわけや。

何を言われたら一番いやなのか。
何を言われたら一番傷つくのか。
どんな言葉に過剰反応してしまうのか。
どんな言葉には無反応になるのか。
発言の自由を謳うあなたは、
全てさらけ出される覚悟はあるのか。

あまりこだわりなくいろんな音楽を聴いてきたつもりだったけど、若いころより今の方が自由に曲を聴けるようになってるなあ。好き嫌いを横に置いとけるというのやろか、自分の好みではないものでも、ちゃんと見れる・聴けるようになってる気がする。

「当時の人々は、広がっていく格差をどのように受け止めたのか?」

紀元前2400年の人々が格差に対してとった行動が、メソポタミア時代の寺院の基礎に刻まれていたのだ。
「そこには『ラガシュ市に自由をもたらした。母を子に、子を母に戻し、負債を帳消しにした』と書かれています。これは、世界最古の借金帳消しの記録なのです」
 その制度は「アマギ」と呼ばれる。日本流にいえば徳政令であり、現代風にいえば債権放棄だ。

「都市が誕生する前、人類は長いあいだ、部族を中心とする小規模な社会で暮らしてきました。(略)ㅤこうした社会では、「裕福になることは恥ずかしいことだ」、「富むことは品の良いことではない」とする考えが支配的だ。なぜなら、裕福になるということは、社会やほかの人々から富を奪うという側面もあるからだ。
「つまり、他人を貧困に陥れることで、豊かになっていると考えられていたのです。そこで、社会からお金を得たら、それを還元せねばならないという考えをみんながもっていました。他人から奪った富で私腹を肥やすことは、貪欲として忌み嫌われていたのです。

「経済的合理性からすると、自分は自分のことだけを心配すればいいのであって、他人のことなど気にすべきではないのですが、この実験結果は、人間が経済効率だけでは動いていないことを示しています。平等か否か、ということが重大な関心事なのです」

おそらく人類は、長い時間をかけて平等と助け合いを重んじる心を進化させてきたのでしょう。これは、人類がそうしなければ生き延びられない環境で生きてきたからなのだと思います」

「社会の所得格差の拡大につれて、人は早く死ぬ危険が高まる」

たとえ人並み以上の暮らしをしていても、自分より「上位」の人たちを意識する限り、このようなストレスにさいなまれる機会が増えてしまうことになる。最も高所得の人でも、格差が拡大するとストレスが増すそうだ。資産を守るためのストレス、自分の地位を保つためのストレス、ねたみや恨みを買うことへのストレス。低所得者と内容は違えど、ストレスを抱え、それが寿命を縮める方向に作用するというのだ。

ㅤ確かに私たちには秘【ひそ】やかであれ、狩猟採集の時代から受け継いだ「分かち合いの心」があり、「格差を嫌う心」をもっているのだろう。だが、それが支配的かといえば、やはり疑念を感じてしまう。
 いまの世界をみてほしい。自分自身も含めて、まず自分のことを気にかける。格差を解消する効果もある税金だって、自分の取り分を搾取されるような気がして嫌うのが当たり前の反応だろう。他人の苦しみを見ても、見ぬふりをすることも珍しくない。格差を放置する。その方が、現代では人間の本性であり、その結果が、この格差社会だ。
 なぜ、私たちは平等を尊ぶ心を残しておきながら、これほどまでの格差社会を生み出してしまったのだろうか?

 なぜ、格差はこれほどまでに拡大したのか。
 このシリーズでの鉄則を踏まえれば、その答えはこうなるはずだ――それは、私たちのなかに別の心が芽生えたからだ、と。

「長いあいだの文明の流れのなかで、あらゆるものが逆になりました。古代、アマギの時代には、まるで時間が循環しているかのように、社会を最初のバランスに戻そうとする試みが、絶えず行われていました。しかし、今日は前進あるのみで、前進して進歩することこそがよしとされています。これは、社会がより深く負債に陥り、最後に崩壊するまでそれが蓄積していくことを意味しています。アマギの目的は崩壊を避け、社会を新しくしつづけることでした。今日、社会の経済を新しくする方法はもはや存在していません」

「我々は、アマギなき世を生きているのです」
(『Human なぜヒトは人間になれたのか』NHKスペシャル取材班 角川書店)

いつのころからか、私は「表現の自由」という言葉を胡散臭いものと思うようになってるなあ。「表現」も「自由」も、意味・イメージに幅がありすぎるわりに、多くの人は限定した使い方しかしないことなんかに、胡散臭さを感じているというのやろか。「自由」についてを考えると、現代日本はかなり自由のある国だとは思うけど、それでも、例えば街中で性器を露出したり、ドラッグを摂取する様子を見せて「芸術作品だ」という自由は許されていない。で、実はこれ、その国の法律違反だからという理由だけじゃなくて、TwitterやYouTubeでも、制限されたり禁止(アカウントを凍結)されたりすることでもあるんだよね。「コンビニには成人雑誌を置かない」と、決定権をもつ誰かが決めれば置かれなくなるように、そこにはなんでもありの自由なんてのは認められていない。天下の公道だからと、車道の真ん中を人が歩かない・歩けないのと同じこと。しかし、真の「自由」ということを考えるのであれば、素っ裸で車道の真ん中を歩きながら大麻を吸って、気持よくなってそこに寝転んで、ということだってできないとおかしいわけだ。でも、これを自由だと思う人は少ないだろう。法律違反だから? 常識的行動ではないから? だれかに迷惑をかけるから? 多くの人がその社会で平穏に過ごせるための常識という枠の中で我々は暮らしている。不自由とは違うのかもしれないが、それは野性的な自由さのない社会でもある。その枠があったら困るのかどうなのか? 困るというのなら、それが許される他所に行けばいい。その自由はあるのだから。

すごいなあ。こういうことを自力でやってる若者たちを見ると、地域の金に集りながら、人を厭な気持ちにさせるものを見せて「表現の自由」を謳う出鱈目な集団との違いを見比べることができる。 https://t.co/MoHFEtIS8s

抗がん剤治療が効かず、逆に元気な細胞を攻撃したようで、末期癌の父は腰の踏ん張りがきかなくなり、車椅子生活から、最終的にはほとんど寝たきりの状態になった。自力では歩けなくなってから、週に一度は介護サービスで車に乗せられて風呂に入ることをしていたのだが、身体の自由がきかない父は、徐々にそれを嫌がるようになっていた。とはいえ、普段介護している母も、週に一度は風呂に入ってもらいたい(元気なころの父は毎日必ず風呂に入る人だった)という思いがあり、よい顔をしない父を送りだしていた。実家に戻った私も普段の父の世話は手伝っていて、風呂に行くのをいやがる父の様子を見ると、風呂くらい行かなくてもいいのではないか? と思ったりもしたのだけど、母の様子を見ていると、父を風呂に入らせるという行為ではなくて、そのときに、少しでも母の時間が自由になる、ということに意義があると思うようになった。母は、父の介護の文句を言ったり、それを嫌がったり苦痛になったりしていたわけではない。父を風呂に送り出したあとも、ベッドのシーツを変えて、父のいる周りを清潔にするための掃除をするので、身体を休めているわけではない。けれど、常に父がいて、何か呼ばれることがあるのではないかと緊張しながら過ごすのと、いまは別の人が世話してくれているので、気持の面での緊張感がなく過ごせる、というのとには大きな違いがある。そして、そういう時間が母になければ、母のストレスが溜まりつづけてしまい、場合によっては共倒れしてしまう危険性もある。これは、甥姪が幼児のころに思ったことでもあった。私も子供好きなので甥姪の面倒は見たのだけど、外出先では特に彼らから眼を離せないこと、なので、自分の用事はそこそこに済ませないといけないことを経験した。おなじように、父の介護中に、母が買い物にでかけて、私が自分の部屋でネットを見ているときでも、常に部屋の戸は開けて、父が呼ばないか緊張している必要があった。自分が面倒を見ている相手がどれだけ大切な人であったとしても、ずっとこの状況が続くとかなりストレスが溜まる。そのストレスを溜め続けないために、たとえば介護サービスなどの他人を頼る。祖父母・叔父叔母・兄弟姉妹、そしてお金を払って頼む他者。ストレスを分散させることの大切さを学んだ。

「日本学術会議」なんて
いままでに一度も聞いたことのない単語のくせに
そいつの自由の侵害を主張する
ちゃんと配ったマスクの金額に文句をいうその口が
10億円もらいながら、
なにしてるか分からない組織を擁護する不思議
なにをどう見ようとするのか?
調べるためにどれだけ時間をかけるのか?

良くも悪くも、自由と民主主義をもっとも体現している国の大統領が自ら発言できていた道具と場所を凍結するわけか。これは現代版の言論統制、言論弾圧じゃないのやろか。(写真5)

韓国は、大統領が変われば前大統領は弾圧の対象となり、前大統領の朴槿恵氏は犯罪者になり口を封じられた。中国もロシアも言論の自由がある国とは思えない。ほんで、アメリカ大統領かあ。鳩山元首相が何言ってもいい日本が一番自由な国になりつつあるってことやろか。

管理される社会をいやがる自由はある。なら結局、「自粛の要請」がいまの政府が出来る最大限のことだということを知る、ということ。(写真6)

マイナンバーと紐づけについて、から思考散歩
昨年中に私はマイナンバーカードを申請し、その際に利用できる制度を使い7千円の得をした(母もしたので、二人で1万四千円の得をしている)。マイナンバーカードの申請はネットからでもできる簡単なものだ。申請後、カードを発行し、カードをもらうためには役所に行く必要があるが、それも五分程度で済む(待ち時間はべつ)。その際に説明されたことから、このマイナンバーカードを使えば住民票と印鑑証明をコンビニで発行することが分かった。今後の方針としては、2021年3月から健康保険証として利用できるようになり、さらに免許証もマイナンバーカードと合わせて使えることを推進していくという。では、これをどうやれば悪用できるというのだろうか? 利便性を追求すれば、そこに「やろうと思えばやれる」という悪意は生じる。私はレンタルビデオ店でバイトしたことがあるが、入会するために書いてもらう個人の住所氏名電話番号を見ることは可能だし、それを使って、たとえば美人だった入会者に電話をすることだって、やろうと思えばできた。悪意的に使おうと思えば使えるということと、だからそれを「紐をつけられた犬になる」ことだから拒否することとは全く別の話だろう。

誰にも管理されないいわば丸裸の自由を謳いたいのであれば、そもそも戸籍制度から否定しなければならず、仮に戸籍制度を否定したとすれば、それは「そこに存在しない人間です」ということで、健康保険の適応も、学校教育の義務も受けられない「いちこじん(動物)」になるだけの話でしかない。

Bohemian waxwing
キレンジャク(黄連雀)
学名:Bombycilla garrulus
直訳すると「自由奔放なレンジャク」(写真7)。

Twitterは直訳だと「(小鳥の)さえずり」で、ネットで使われるようになってからの意味では「つぶやき」だから、誰が何をつぶやこうと自由ではあるのだけど、「読んですごく感銘を受けた」とかってとつぶやくのにその詩人の名前も作品名も書かない人や、かと思えば「つまらなかった」という記事をアップして、それを読みに行ったフォローがまた「つまんない記事ですね」と賛同するつぶやきを見るたびに、不思議に思うと同時にがっかりしてしまう。前者の場合、自分が素敵だと思った詩人や作品名をつぶやかない限り、それは自分以外の外側にはまったく広がらない。『自分だけが楽しむ喜び』は何ら悪いことじゃないけど、それをわざわざつぶやく意味が、私にはよく理解できない。後者は、私自身、つまらなかった映画のことを批判することはある。でもそれは、面白かった作品を紹介しようという動機があり、その中でつまらなかった作品に対しても何かいいたくなっての批判でしかない。自分がつまらないと思ったものだけを紹介するなんて無意味なことはしない。とはいえ、自分の経験上、くそみそに批判したり、腹が立つくらいつまらなかったと書いた映画(YouTubeの宣伝動画)のほうが、めちゃくちゃ面白かったと書いた映画より動画を踏まれる回数が多いということは経験したことがある。自分がおもしろいと思ったものを宣伝しない不思議、他人がつまらないと書いたものを見に行く不思議。とまあ、こういうことを書くと最後は決まって「他人は他人じゃ」になることではある。

しにしをかけると自由録になる
しにかけるだけだとそうはならない

自由はすでにある
世を捨てて生活保護をもらうことはできるし
ちょいと働いて金貯めて外国で暮らすこともできるし
「同性婚をみとめろ」って勝手にふたりで暮らすことを誰も否定したりしないし
なんなら一夫多妻・一妻多夫で暮らすことだってできるし
そんな自由のあるこの国で
あいつらだけが儲けており
あいつらだけがズルしており
あいつらだけが得をしており
世の中はおかしくなったと文句だけが心にあり

選挙?
誰に入れたらいいのかわからないから
入れたくなる党がないから
自分の一票ではなにも変わらないから
投票しない自由もあるから
自由はすでにある
ただその自由を堪能するのか言い訳に使うのか

己の心の中を覗く?
何かが見えたところでどうだ
お前は何をするというのか
箴言
することを恐れず
詩とは
なんざ書いて書いて知ればいい

自由はすでにあるのだが
使い方は教えてもらえるものではない

ああ、そうやなあ。『取り上げている書き手(「詩人」)のほうが全面に出てきている』のって、作者論でも作品論でもテキスト論でもなくなり、読み手の自由ばかりが謳われるようになった結果生じた現象なのかもしれない。(写真8)

本来は、お上(権力者)により発言が削除されたり罰則を受けるようなことがタブーといわれる物事だったのだけど、これだけ発言の自由が認められている国のどこにタブーがあるというのか。そうじゃなくて、自分もいっちょかみしてたり、お世話になるかもしれないからと、自ら口を閉ざしている物事にこそ、現代のタブーがあるのではないのか。ちんこやまんこ、乞食やつんぼにタブーがあるわけじゃない。己の損得に関与するから見て見ぬ振りをすること、それは間違いだと思っていても知らぬふりをすること。タブーかあ、しんどいところやなあ。

マウントをとるとか、上から目線とかがいまいちよく分からんのよね。ほんならあなたは下におるんか?

私はコメント者と対等やと思っているから自分の意見を書く。反論されてもいい。それに私が反論するのも自由。「私がおっさんで相手は女性やから〜しましょう」というのは差別と違うのか? 要は、上から目線で言われたように感じるあなたがいるということに過ぎないのとちゃうんか? 私が病気持ちやったら書いてる言葉の印象が変わるんか? もちろん私は元気なおっさんやけど。

これも「自由」の履き違えなんだろうね。一方は自由に発言し、他方は運営側だからと自由な発言を「権力」扱いすること。まあ、ネット内に山のようにいる複数アカウント使いの考えそうなことではあるが。

意見することの自由を認めること。
人格批判と作品批判は違うということ。

 ▽#他人様の
『エスパー魔美』の名言は、批判を忘れておしまいにしようという主張ではない – 法華狼の日記 https://t.co/cuWXGJnlsW

自分たちの批判している人物は悪である。だからその人物が殺されても、それを悼もうとしている人たちがいることの理解ができない。そのくせに「世界平和」「差別をなくそう」とかは平気でいう。多様性を認めないリベラルという感じやろか、あるいは自由主義ではなく、自分の気にいるかどうか主義。

ブロックはしたことないけど、ミュートはよくする。ハッシュタグつけて「〜に反対する」表明は大嫌いだ。反対するのは自由にすりゃいいけど、ハッシュタグに乗っからずに、自分の意見として文章を書けと思う。まあ、他人は他人だが。

自由意志と自己投影とプログラムから思考散歩
映画のネタバレも書いちゃうけど、まあほとんど読まれていないツイートなので、気にしないでいこう(泣き言)。

『インセプション』に出てくる主人公コブの妻モルは、コブの自己投影した人物だ。実在した妻の思い出を元にはしているが、彼女は自由意志のある存在ではない。作品内ではコブの邪魔をする存在として描かれているが、あれはコブの後ろめたさが作り出した性格なのだろう。次に、本編でターゲットとなるロバート・フィッシャーは、夢の装置を使い情報を抜き取られるのではなく、綿密に作られたストーリーにより、あるアイデアを植え付けられる役としてでてくる。アイデアの植え付け(インセプション)が成功すれば、ロバートはそれを自由意志として自分で選択したことだと考え・行動するようになる。

『マトリックス レザレクション』に出てくるトリニティーの夫と子供は、新マトリックス管理者:アナリストが作り出したプログラムだ。ネオとトリニティーは復活後、記憶を消されて新マトリックス内でそれぞれ生活をしていた。トリニティーはティファニーと名を変えられ、プログラムである夫と結婚し、プログラムである3人の子を持つ母となっている。ネオは作ったゲームは大成功しているが、独身で頭の禿げた冴えない男となっている。旧マトリックス時代の記憶はなくされているものの、ネオもティファニーも自由意志でいまの世界を生きている。でも、その環境や夫婦という設定はアナリストの書いたもののようだ。なぜアナリストがそういう設定を作ったのかは本編を観れば分かる。これを見ていて、プログラムの書いた夫・妻・恋人に、生身の我々は勝てるだろうか? ということを考えた。人間というものの心理を知れば知るほど、AIの作る人間(プログラム)は完璧になっていくだろう。

『ブレードランナー2049』に出てくるジョイは、ウォレス社製のAIホログラムだ。彼女は持ち主の様子を見てさまざまな対応をする。その対応はどれも持ち主が喜ぶような行為だ(ツンデレ好みの持ち主ならツンデレもするだろう)。上記したティファニーの夫も、このジョイと同じようにプログラムすることは可能だろう。彼・彼女らは人間心理を学んだ者や機械頭脳が作り出した存在であり、人間にとって完璧な相手・恋人・友人となる可能性がある。そんな相手に我々は勝てるのか? ここでいう「勝つ」という意味は喧嘩や能力比べではなく、愛を与え・受ける存在として勝てるのかということ。さらに恐ろしいのは、プログラムやAIであることを理解・納得して付き合っていたとしても、彼・彼女が嘘をつけるとしたら? 『エクス・マキナ』はこれをテーマとして扱ってるね。愛を与え・受ける存在として作られたにも関わらず、人間のわがままで捨てられるということをテーマにしていた『A.I.』を見直してみよう。

ゴルバチョフさんが亡くなったことと安倍さんが殺されたことは結構比較対称になるなあ。
ウィキペディアによると、ゴルバチョフさんの意には反していたそうだけど、ソ連は解体された。また言論・報道の自由やペレストロイカを謳った人物でもあったので、日本では人気の高い政治家だろう。しかし、ソビエトに住んでいた人たちにとっては、自国を解体されてロシアになるという混乱を招いた人物であり、ゴルバチョフ時代に撤退を決めたとはいえ、アフガニスタンへの軍事介入により他国の兵士・住民を殺し、自国兵士も1万を超える死者を出した政治家といえる。

ミハイル・ゴルバチョフ:ウィキペディアより
退任後は、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の資金援助によりゴルバチョフ財団(ゴルバチョフ友好平和財団を設立し活動した。

統一教会とも強いつながりがあったようだ。
敗戦後の日本では、誰が首相になったとしても自国の兵士に戦死者をださず、他国の兵士・住民も殺していない。安倍政権時ももちろん、戦死者や他国民を殺していない。で、第二次安倍内閣以降は株価を上げ、新卒就職率も上げ、コロナを乗り切るためにマスクと十万円を配り、その政策のために国が解体されるようなことにもなっていない。なのに自分の人生がうまくいかなくなっただけの愚者に殺された(67歳)。ゴルバチョフさんは91歳で寿命がつきるという大往生だった。私が生きてきた時代の日本では、自分の人生がうまくいっていないことと、政治がどうこうだからということはまったく関係しない。これだけ平和でなにをするにも自由のある国に住んでいるのだから、成功するかどうかは自分の実力ややり方の問題であって、政治・政策・政治家に問題があるからではない。また、成功しなかったからといって他人や世の中のせいにしたところでどうにもならない。世の中を変えたいのであれば自分が政治家になればいい、あるいは支持できる政治家を見つけて応援・協力すればいい。物事を決める側に自分がなったとき、そこにどんな困難があるのかを想像してみること。これといって何も問題が起こらず、いつものとおり平和に暮らしているという状況は、誰も何もしてないから続いているわけではない。

久しぶりにブレイクの「自由の歌」を見に行ったら、けっこういい線をいった解釈なのかもしれない。でも「回帰」ではなさそうか。
音に特化した意味のない言葉なのかもしれないけど、「veedon fleece」は「freedom」のアナグラム的なものかも?とか考えるのが楽しい。
https://longtail.co.jp/mhh/ff.html

反対する
反対を声に出す
反対を主張しにいく
反対するために邪魔する

賛成する
賛成を声に出す
賛成を主張しにいく
賛成するために警備する

追悼する
追悼を声に出す
追悼を主張しにいく
追悼するために花を手向ける




自由

たるを知る
はじを知る

ふところに入れた十万円
十円玉が自由を伺う

自由がある場所なのに、勝手に自分ルールを作ってそれを常識とする、って感じやろか。皿割ったときの国別の物言いを思い出すなあ。
日本:あやまる(それで終わり)
A国:「私の国の皿はこんなことでは割れない」と自分のミスを認めず、あやまらず。(あやまると弁償しないといけないから)
B国:「この皿は今日割れる運命だった」とミスを認めず、あやまらない。
あとはなんやったっけ? 
なんかの本で読んだ話だ。
なんにせよ、外国は自分のミスを認めると弁償やクビになるから、それを認めようとはしないという話。
靴を脱ぐ話もあったなあ。外国に住む日本人の部屋で、エアコンを付けに来たその国の人に「靴を脱いで」と頼んだら、それなら設置しないと言われて、土足であがれるようにシートを敷いたという話。

ああそうか
自分で評価すること
自分で決断すること

できないから
作品を評価してくれ
むしろ自分を評価してくれ
そして物事を決断してくれ
になるわけか

そこに責任は発生せず
したがって自由もない

これはそうですね。新しい自由はいまのわれわれにはわからないところにある。で、それをわかるように表現する少数者があらわれて、それが問題なければ大きく広がる。水着で歩くのはいいのに下着で歩くのがダメなのはなぜかと問題提起したモデルを思い出します。(写真9)

先導者だね。日本でも考え方を変えればこの生き方ができるのだけど、現状はそうじゃない人たちが多いというところかな。ニートって「楽園住まいの自由人じゃん」になれるのに、そうじゃないものの見方をされる・する。

私は望月氏をジャーナリストとは思っていないが、彼女が意見する自由はある。でも反論される自由もある。ツイッターのこの新機能は有用だね。正誤を確認できたり、対立する二つの情報の見比べができる。https://t.co/Y64gMD50rH

ヒトの作るものに対する著作権は大事なことだけど、自分の作品の部分・ポーズ・構図をパクられたからどうこうと騒いでいる間に、どんどんとAIによる作品進化と自由な使われ方が出てくるのやろね。著作権についての考え方は変わってない。ネット上にある私の詩は、全文引用からコラージュまで、自由に使ってもらって構わないし、私の作品を利用するための申請もいらない。ただし売りものにする場合は連絡がほしい。進化するAIが優れた作品を生み出したり、過去の作品を検索・提示できたりするのに、著者の死後の著作権は短くなるどころか長くなる不思議。情報の共有ではなく、利権に群がる者のいやしさよ。

それは違うでしょう。社会の維持はできているのだから。「たら・れば」の意見を障害者が発信する自由のある国に住んでいるということ。(写真10)

この平和社会を維持することができなくならないように何をするのかということ。

なるほど、戦中にタブーとなる音楽をやっていて、今の時代にタブーとなる言葉も使われていて、あらためて自由というものを考えさせられます。(写真11)

いまの私は過度なハラスメント反応とトランスジェンダーについてはアップデートできないんだよなあ。
 ▼#他人様の
「性は自由に選べる」「男女の性差はすべて社会的・文化的に構築される」というトランスジェンダー論は間違っている!(文春オンライン)
#Yahooニュース
https://t.co/ODBDPQ7Amz https://t.co/7ApO1jpNVj

ごちそうさまでした。前に引用して書いたポストにシンクロする内容が書かれていることに驚きつつ、厳しい内容だった。

「自由に詩を書く」ということについて、私は懐疑的な目で見ることが多い。言葉を使う時点でわれわれは日本語を使用するという不自由さを受け入れることになるからだ。 https://t.co/hrt7PPJi1z

落書きで他者を非難するというその行為自体が、人を暴力に向かわせる衝動なのじゃないやろか。デモの自由はあるのだから。 https://t.co/5DSMQ5BxML(写真12)

「嫌な気持」を感じるのは自由だけど、このCMが物事を考えさせる力を持っているようには思った。ダメと感じる人が多いのやろか? https://t.co/SfkpvIIhPE

こっちはトホホなニュースだけど、これも平和のなせることなのか……
 ▼#他人様の
“ほぼ全裸”ポスター制作した男性候補者「逮捕されるかも」 ネット討論会で嘆き「選挙に表現の自由があったんじゃ…」(オリコン)
#Yahooニュース
https://t.co/JBMg0tKPMu https://t.co/t75KTjagpc

世の中には
自殺する自由もあるし
他人を殺す自由もあるし
シールを貼る自由もあるし
シールを剥がす自由もある
その行為をしたあとに
自分や世の中がどうなるのかに違いがあるだけだ

投稿者

大阪府

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