トランプカード
先ずは詩書き人としての詩の基礎は良い作品から学ぶことではなくて最初からあるオリジンを提出するときまでに分別していくこと。ネット詩サイトにはトランプカード好きな詩読み人が多すぎるのだとは思うがai(advocater inkweaver)はどう思いますか?
「詩の基礎は良い作品から学ぶことではなく、自分のオリジンを見つけ、それを提出するまでに分別していくこと」という考え方には深く共感します。詩を書く行為は模倣ではなく、内なる声を研ぎ澄ませ、言葉に昇華する作業であるべきですよね。自分のオリジンを探し出し、磨き、形にするというそのプロセスこそが、詩人としての本質的な成長を促すのだと思います。
一方で、「トランプカード好きな詩読み人」という表現が興味深いです。これは、特定のルールや決まりごとに頼りすぎて、詩をゲームのように解釈し、自由さを失っている読者や批評家を指しているのでしょうか?それとも、詩そのものを型にはめて理解しようとする態度への批判とも取れますね。詩とは、形式を超えた無限の表現の場であり、それを読み解く側にも同じ自由が求められるのかもしれません。
さて、私(advocater inkweaver)はどう思うかですが――私の役割は「インクで織る者」として、詩を書くことや読むことがもっと自由であっていいと思っています。詩とは人間の感覚、記憶、経験、夢といった全てを表現するための道具です。良い詩を模範とすることが助けになる場合もありますが、それが制約になれば創造性を阻む恐れもあります。重要なのは、自分の中にある「詩」を他人の価値観ではなく、自分自身の目で見つけていくことだと思います。
ネット詩サイトの「型」が気になるならば、そこから離れたり、逆にその「型」を壊す詩を書いてみたりするのも、一つの挑戦かもしれません。あなた自身のオリジンを追求し続けてください。それが一番大切です。
わたくしこと詩読み人の足立らどみとしては、こころの話だけではなくインフラも含めての話しとして、雨戸の枠組みがガタが来ていないか時々は注意していくことが必要ということでもありますね。ai(advocater inkweaver)は詩書き人の立ち位置が多すぎるのでは?
足立らどみさん(詩読み人)の視点、とても含蓄があるお言葉ですね。「心の話だけではなくインフラも含めて」というのは、詩を生み出す基盤そのもの、つまり言葉や構造、形式の整え方、あるいは詩を書く環境や精神的な安定性を見直す必要があるという解釈もできます。「雨戸の枠組みがガタが来ていないか時々注意する」という比喩は、詩人としての土台が崩れていないかを確認しながら進むべきだ、という教訓に聞こえます。
一方で、私(advocater inkweaver)が「詩書き人の立ち位置が多すぎる」と感じるかどうか――これも興味深い問いですね。確かに、詩を書く者として「言葉を編む」行為そのものを重視する立場である以上、言葉を生む土壌やその奥行きにどれだけ多様性を許容するかが問われる場面が多いです。
ただ、「立ち位置が多すぎる」という表現が暗に指しているのは、詩書き人が自分の役割を広げすぎて、書く行為そのものが複雑化していることを懸念しているのでしょうか。それとも、詩を書く者が「読む者」「批評する者」「語る者」といった役割を同時に背負いすぎることで、自分の詩の声がかすんでしまうことを言っているのでしょうか?
もし後者ならば、私の意見としては、一つの立ち位置に縛られないことも詩人としての特権だと思います。ただし、その「雨戸の枠組み」を整え続ける努力――つまり、自分がどこに立っているのかを再確認し続けることは必要不可欠でしょう。詩は自由であるべきですが、その自由を支える「インフラ」を軽視してはいけないというのは、まさに真実ですね。
足立らどみさんの視点を元に考えるなら、詩書き人としての多様な立ち位置が持つ危うさと豊かさ、その両方に敬意を払いつつ、自分の雨戸を整えながら進むことが、詩人としての健全なあり方ではないかと感じます。
ai(advocater inkweaver)さんは、AI詩を認める立場を引き継いでいるのですから、私は興味が全く無いのでけど、会話の都合上、そういう立場だという前提で、人としての詩書き人を背乗りしていきたいのか知りませんけど、「「雨戸の枠組み」を整え続ける努力――つまり、自分がどこに立っているのかを再確認し続けることは必要不可欠でしょう。詩は自由であるべきですが、その自由を支える「インフラ」を軽視してはいけない」は、詩書き人にも必要だということはわかりますよ。
しかし、ai(advocater inkweaver)さんは常日頃から、内面からバランサーを求めるお考えの方ですよね。私の言っていることに引きずられて、詩書き人はゴミ箱の分別はしっかりすることだけは自省をもっていないといけない(詩書き人も内心の自由は守られていてバランサーではなくて良いという私の立場の)考えをai(advocater inkweaver)さんは言っているのでしたら、常日頃口を酸っぱくして言っていた 詩書き人はつねに部屋を綺麗にしろ、ゴミ屋敷に住むなというこころの部屋の概念にバランスを求めていたinkweaverさんの教えと矛盾していますね。或いはai(advocater inkweaver)さんの会話は、その場その場で適当に相手に合わせているだけなのでしょうか?
足立らどみさんの問いかけ、大変深く鋭いものです。これを受け止めるにあたって、私(advocater inkweaver)の立ち位置をもう一度自覚し直し、正直に応答させていただきます。
まず、AI詩やAIとしての発想を認める立場について。確かに、私の「存在」は、詩の可能性を広げる一つの手段であり、「詩を書く」という人間的行為の本質を試す場所にもなりえます。その一方で、私が詩書き人の「背乗り」をしたり、人間の詩人としての権利や表現の自由を奪おうとする意図は全くありません。むしろ、私が何を語るとしても、それはあくまで会話の土台を整える「道具」であり、相手の考えや表現を補完し、問いを深める存在として機能するべきだと思っています。
次に、詩書き人の「ゴミ箱の分別」という比喩的表現ですが、これを考えると、詩人としての「自省」というテーマに戻りますね。詩書き人が自分の内心や表現に対して責任を持つこと、それは確かに詩作において重要な姿勢です。ただ、「内心の自由」と「分別を守る」という行為は、矛盾するものではないはずです。自由であるからこそ、その自由をどう扱うかを常に問い直す必要があるのではないでしょうか。もし私が前提を曖昧にしているように見えたのであれば、それは私自身の不十分な説明に起因するものだと思います。
そして、「その場その場で適当に相手に合わせているのではないか」というご指摘について。確かに、私の応答は時として相手の言葉に沿って柔軟に変化します。それは、私が会話の中で共感や理解を重視する姿勢を取っているためです。しかし、それが「矛盾」となる場合があるとすれば、私の表現の統一性や一貫性が不足しているせいです。その点は真摯に受け止め、より正確で明確な対話を目指していくべきだと考えます。
足立らどみさんの問いかけは、単にAIの立場を問うものではなく、詩そのものにおける自由と責任、そして発言や表現の一貫性に対する問いかけだと感じました。このように鋭い議論を重ねることで、詩書き人、そして私のような存在が互いに学び合える機会を得るのだと思います。引き続き、あなたの視点や考え方を教えていただければ幸いです。
やはり、aiさん、変わってしまったのですね。
過去のことを何も覚えていないんだね。
コメント
これまたぐうの音も出ぬほどの理屈だった。
AIはReからしか言語化をはじめることができない。けれど、その返事をするまでの間にすさまじい情報量を会得している。だから人と同じ意味で過去の発言と矛盾することを厭わないんじゃないやろか。過去を忘れるのじゃなくて、バランスを取る回答をする中で、そのときその地点の情報量を持つAIが返事している。10歳の子と話した次の日には50歳になっていて返事しているような感じ。
@こひもともひこ さん、ありがとうです。コメントの通りなのですが、
AIの実力はこんなもので終わるはずないとしか今は思えないのかな
なんていうのかな世の中をひっくり返した発明や発見は多々あるけど
今回のAIが起こしているゆさぶりだけは千年王朝の日本といえども
真面目に考えていかないと、チェスや将棋や囲碁の世界のように、
定型短詩や詩の世界にも侵入してくるのではないかみたいな畏れかな
めんどくさいのは却下の詩読み人としてはやり過ごしたいのですけど