沙羅の木
エンドウの花はしばらく疎開していると言う。グァテマラのあたりに扉を開いて、頭は東に向けて。罌粟の実のような寂しさについて、本願寺の扉に救世観音の声で湿らせるのだと言う。記憶の底では〈アルマジロ〉の移動とともに、民衆の声で砂煙が立ち上がるので。花は奇妙な夢語りである。しぼんだ寛永通宝の両側に力士像を立てて、その先には日光菩薩と月光菩薩を実際存在したモデルの〈かおかたち〉をそのままに。そしてしばらくは無音の世界に奈落の底に落ちて行く途中の茅葺の家の炉端に座ったこの老婆の髪に。日は経ちて、この老婆の意志する未来図は、ヘチマの蔓の如く家の屋根へと伸び続けて行くのであり。写真館の主人が茶菓子を持って、懐かしく思い出す時には、ほとんどの壁は土壁であり、崩れ去るこの意識の当体と言われるものが、写像としてのしわだらけの手で髪をすくのである。奇妙な一致によって、干し草の中から汝の眼玉の形式が発芽している。これはもう少しで蟹の幼生として海岸に流れ着くものであろう。信じ難いけれども人々はエンドウの花に亡き人の面影を見るのである。そして寺院の壁に描かれた菩提樹の下では、ブッダが豆を挽いている。当然のような顔をして彼は碾き臼の穴に豆を一粒落とすのである。かれこれそれは二年も前のこととなってしまった。担ぎ込まれた菩薩の体はまだ温かくて、その唇は生きているのである。それから庵主は湯を差し上げようとして、彼の体を起こしたのである。まるで認識から覚醒する真実の樹木の沙羅の木のゆるやかに、花を咲かせることがあるように。そしてしばし忘却されて歴史的時間の幼い邪神の言葉で、見聞きしたものはすべて密かな終末の金の扉へと、辿り着くのであろう。塞がれた眼で未来のエンドウの花をこの土壁に描いている絵師の、さも意志する完成形へと、直ちに思いは至るのである。ところどころで染みは形を模倣している。世界図の端の方では、スペインの船が落ちようとしている。陰になる君の手がすなわち未来の正面にわずかな寺院の傾きに対して、忘我の静けさで澄み切って、それでも完結に緑青の色で、しぼられる花の色とする。
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