夜の旅
フランス語で薄むらさき色という名のレストランだった
そこは比較的若くして世を去った私の父が連れて行ってくれた店だ
ホテルの中二階にある扉を開けると
荘厳なバカラのシャンデリア テーブルには二重に掛けられた真っ白なクロス
年月を感じさせる艶やかな内装が迎えてくれる
父よあなたが亡くなった年齢に私はなろうとしている
だからだろうか私はその店のスペシャリテをもう一度味わいたい
グルヌイユのマッシュルームソースのパイ包みのようなスペシャリテを味わいたい
絵に描いたようなメートルドテールが厳かに運んでくれるその一品を
けれども私は扉に手をかけることなく店の横の回廊を進んでゆく
なぜかは問えない まあ言わばある種のアースバウンドだろう
回廊の突き当たりには人口に膾炙した中華料理屋がある
盛況すぎるためまともに正面から入ることすらできないので
厨房の出入り口から入ってゆくのだ
オーナーのように オーナーそのもののように オーナーそのものであるかのように
オーナーは料理の注文などしない
笑顔を振り撒きながらただ通り過ぎるだけだ
一刻も早くこの店から出たいと思っているのを悟られないように
そのようにして私はようやく壮大なホテルのエントランスホールにたどり着くのだった
こんにちは おかえりなさいませ 例のアレを かしこまりました
チェックインフロントで渡されたキーには21108号室と記されていた
エレベーターに乗り私は21階のボタンを押そうとする
21階の108号室に行くために
しかしなぜ2階の1108号室や2110階の8号室のことを考えなかったのかと
今になって悔やまれる
このホテルは 下層階ほど客室が多く 上層階では少なくなるのである
だがその時の私にはそんなことを考える余裕がなかった
と言っても過言ではない
むろん華厳の滝でもない
ところでこのホテルにはあちらこちらにエレベーターがあるのだが
その種類が多岐にわたっており
息をするのも苦労する棺桶も斯くやというような一人乗りのものから
その中にショッピングモールや 果ては温泉宿まで備えた巨大なものもある
ホテルの中に旅館があるというのは冗談のようだ
ホテルの中のエレベーターの中に旅館がありその旅館の中のエレベーターの中にはまた別のホテルがあってその別のホテルのエレベーターの中には
これみよがしにマトリョーシカが置いてあるに違いない
そんなエレベーターの上昇速度は極端に遅く
遅いものでは1階昇るのに1日かかる
365階に行こうとするとまる1年必要というわけだ
まあ多くの人は途中下車して高速エレベーターに乗り換えるのがオチだが
さて私の乗ったエレベーターの話に戻ろう
それは通常サイズの高速エレベーターだった
21階を押そうとした私の手が止まった 21階がないのだ
190階まで直通 そのあとは乗り換えてご自由にどうぞということらしい
エレベーターはものすごいスピードで上昇していき
到着する 扉が開く そこはオープンエアの展望台のようなところだった
心なしか空気が薄い 雲に手が届きそうだ 柵から見下ろす勇気はない
バーが営業していて ビアパーティーが催されている
ラガーですか? ピルスナーです エールですか? スタウトです
そもそもランビックです そりゃまた酔狂ですな おたくも一杯いかが?
自然発酵 すなわちほったらかしにして降り注いだ野性の酵母とバクテリアで腐らせた
ぬるい酢のようなビールを一口だけ頂いて先を急ぐ
エレベーターホールには三つの扉があった
一つは2110階行き 一つは2階行き そしてもう一つは21階行きだった
次に選ぶエレベーターを間違えるわけにはいかないという切迫した思いが込み上げてくる
21階行きを選んで 改札に並ぶ 改札?
切符を拝見 切符? ああルームキーか
それは10人乗りのエレベーターだった
5脚ずつ2列に並んだ椅子が固定されていて
左右の壁には飛行機のような窓が付いていた
21階行きエレベーターまもなく発車いたします シートベルトをお締めください 閉まる扉にご注意ください
改札のホテルマンがそう言って警笛を鳴らすと扉が閉まり
途端にエレベーターは自由落下さながらの勢いで落ちていった
シートベルトがなければ天井に叩きつけられていたところだ
これではまるで絶叫マシンではないか
かなり下降したところで突然エレベーターは直角に向きを変え
つまりなんと垂直から水平へ進行方向を変えたのだった
そして減速 しばらく鈍行速度で進んだ
窓の外には牛が草を食むのどかな田園風景が続いた
ホテルの中にこんな場所もあるのだなと妙に感心した
いつの間にかうとうとしていたが馬のいななきのようなブレーキ音で目をさます
終点でございますのアナウンスがあり扉が開く
そこはなんと 21階の1号室の前だった
自然豊かな小高い丘に囲まれた21階
辺りは薄暮に包まれ漆黒の帳がゆっくりと降りてきていた
仕方が無い 丘を越えて行こうか と
このようにして108号室までの 永い永い
夜の旅が始まった
コメント
コメント失礼致します。
ケッサクです!
サイコーです!
とにかく爆笑させていただきました。
ありがとうございます。
オーナーのくだりから「おやっ?」と身を乗り出して(概念として)読み進め、不意の華厳の滝、いいタイミングのツッコミ(改札?のところです。)、物語の締めくくりと余韻。全部全部素敵でした。本来なら無料で読める代物ではありません。
ところで序盤のホテルの高貴な雰囲気の描写は経験している人のそれだなと思いました。
不条理、という言葉がまず浮かびました…!そしてタイトルがとてもいいなと思いました。あ、まだ始まってなかったんだ、これからまたもっと濃密な夜の旅が始まるんだ、と絶望と希望のミックスジュース(すみません、、)だ、ととても個人的に楽しんで読んでしまいました……。。
自然がつくりだしたアルコール、が、猿たちを、酔わせた時に、猿たちは、木の上で、夢の楽しみを、知ったかも知れない、言葉が生まれたかも、知れない。・・・その時は尻尾が、まだあった。
こういう掌編はDr.の得意とするところですよねー年輪(筆輪)重ねて更に更に円熟味マシマシ野菜マシマシでも背脂抜きで
@ジューン
お褒めいただきありがとうございます! 楽しんでいただけたようでよかったです。
@たちばなまこと
最高の褒め言葉恐縮です。このレストランとこの料理は一度味わってみたいものです。
@ぺけねこ
不条理。まさにそれを感じていただけたなら幸いです。そしてタイトルの意味、長い文章を読んでいただいた最後に実はまだ語られていなかったのだと期待と憤りを持って感じていただけたようでありがとうございます!(ナイツの漫才に、最後に では漫才を始めます〜もういいわ というのがありますがそれと似たようなものですw)
@坂本達雄
ランビックを味わう私たちの物語は大木ならぬ高層ビルに住む尻尾を切られた猿の見た夢なのですね!
@三明十種
十種さんとは長いおつきあいになりました。その年月を思い、円熟味を増したと評価していただけたことは実にましましいことです。私も背脂なしなしが好みです。
軽快さと摩訶不思議さ、それにお洒落さと滑稽さ、いろんなものが無理なくないまぜになっていてどんどん読ませる。たかぼさんの真骨頂ですねー。
@あぶくも
感じていただけると嬉しいことをもれなく感じていただけたようで幸甚です。ありがとうございます。
やっぱり視点の冷静さが良いよね。どこか他人事のように主人公は奇妙な出来事に巻き込まれていく。そこに詩としての一定の距離感があって、クールかつおしゃれさが際立つ。
@トノモトショウ
やっぱり上手いこと評しますね。なんて他人事のように言ってますが、いつもどのようにトノモトショウさんが批評してくれるだろうかと思いながら詩を書いています。ありがとうございます。
不思議な作品ですね。現実から始まって、だんだん現実がねじれてきて、異界のような、天国のような、奇妙なホテルの、夜の旅。掌編詩というのかな。堪能いたしました。
@長谷川 忍
現実がねじれてゆく、天国のような、奇妙なホテルを一緒に旅してくださって、ありがとうございます!
この詩は、まるで人生そのもののようにも感じました
ホテルの中に旅館があったり
エレベーターの中にまた旅館、温泉
そしてまたエレベーター
人生もそんなことの繰り返しのような気がしてきます
開けても開けても、決して中身にたどりつけない
エレベーターが高速なのは
これまでの人生にたどりつくためだったのかな
で、その先の選択
行先はわかっているけど、何故か惑わせるような造りになっていたり
ラストも、まだまだお話(人生?)はこれから
と予感させる締め方がいいですね
@雨音陽炎
人生そのもののように感じていただけたとのこと。確かにそうですね。父が亡くなった年齢に近づいた主人公が人生というホテルの中を迷走し、またその先の旅を始めようとしているように思えます。拙い詩に真摯な考察頂きましてありがとうございます!