接写体
あのね、飛翔するわたしは感覚を失うことはなく、絶望の立体的遮断を経験する。苦笑する断罪のための薄くしなびたクルーズする船にわだかまりの秩序を与えるのである。このシークエンス、このボルチモアの葡萄の添景。雛型の内側はソマリアのこぶうしのように気候を天変とする。その始末される枝からの薪(たきぎ)としての紫煙を巻き付ける骨と骨の苦しくする叫び。あのね、落下するわたしは感覚とは別ものであり、その皮膚の表面に虫たちがあらわれて、その受信体は明確過ぎる方眼紙のように紫煙の形に氷結するのである。この共鳴する〈冬越しの虫たち〉に文字の列が歯肉炎的思考の果てに、モダンな理想の言葉の列を並列接続する。あのね、わたしたちは常に飛翔するものであり、その本質は仮定であるのです。だからラムネの瓶のようにすべる論理の遠近法で、ソルベの時間に招かれている硬直した雨柱は極限の話をする。あのね、わたしは今からクロサイの直進する航路に了解の季節の不意識である。多くの貝殻の内部の光る素質の塩味であり、空間飛行のマジニうれしい感覚です。でもそうした未知の公海上の質問は驚くべきことに、遺伝的可能性を排除しているのである。ひどく興奮した望月の頃の星空との対抗する光の限界と言うもの。面として受け取るものであるはずなのです。強心剤の強固な重力場で曲げられた光が地平に消えて行く時、わたしの飛翔はなぐり描きされた星雲の方へと河を下るはずです。あのね、でもその明日の危険地帯で遮断されるべきものは、視認的感覚のろくぼくの交差する隙間から久々の力学であるのです。でもね、ひのもとの海が周囲を委譲する。意味から意味的にしだいに高尚な場面へと高度を上げつつ、その飛翔力は感覚の上に理解されたものであるはず。あのね、その推進力は個体燃料です。
コメント
あのね、が良いですね!