皺:四月四日は現代詩の日・引用合体詩
見る目のない詩人たちが
世の中の批判をしているよ
覚えも悪く
言ったことの反省もせず
ごまかしやでたらめだらけなのに
でたらめやごまかしだらけだと政府を批判しているよ
見る目のない詩人たちは
だからでんぐり返っていて
詩人たちの言うことの
逆が正解だと人々に思われはじめます
そうなったらいやだなあって
大丈夫だよ
誰にも読まれてないから
それでもやっぱり
反面教師にしか使われない詩はいやだなあ
そんなことになったら
お前なんか死ねって書いたり
殺すぞぼけって書いたり
あんたに価値なんかないんだよと書いたり
しなきゃいけなくなっちまう
▼p.79『山椒魚戦争』カレル・チャペック/樹下節訳 角川文庫
ゲー・ハー・ボンディは、彼の言うことなど聞いていなかった。彼は、相手を観察しているだけだった。ゲー・ハー・ボンディには、人を見る目があった。彼は、ヴァン・トッホのイモリなど、少しも本当にしてはいなかったが、船長その人は、彼に信頼の念を起こさせた。これは、間違いなく潔白な人物だ。それに、あちらの事情もよく知っている。
▼「Mr. Bojangles。」田中宏輔 http://bungoku.jp/monthly/?name=%93c%92%86%8DG%95%E3#a188
「世界にはただ一冊の書物しかない。」というマラルメの言葉を
どの書物に目を通しても、「読み手はただ自分自身をそこに見出す
ことしかできない。」ととると、わたしたちは無数の書物となった
無数の自分自身と出会うことになる。
しかし、その無数の自分は、同時にただひとりの自分でもある。
したがって、世界には、ただひとりの人間しかいないことになる。
細部を見る目は貧しい。
ありふれた事物が希有なものとなる。
交わされた言葉は、わたしたちよりも永遠に近い。
見慣れたものが見慣れぬものとなる。
それもそのうちに、ありふれた、見慣れたものとなる。
もう愛を求める必要などなくなってしまった。
なぜなら、ぼく自身が愛になってしまったのだから。
愛する理由と、愛そのものとは区別されなければならない。
眠っている間にも、無意識の領域でも、ロゴスが働く。
夜になっても、太陽がなくなるわけではない。
流れる水が川の形を変える。
浮かび漂う雲が空に形を与える。
わたし自身が、わたしの一部のなかで生まれる。
それでも、まだ一度も光に照らされたことのない闇がある。
ぼくたちは、空間がなければ見つめ合うことができない。
ぼくたちをつくる、ぼくたちでいっぱいの闇。
ぼくの知らないぼくがいる。
わたしでないものが、紛れ込んでいるからであろうか?
語は定義されたとたん、その定義を逸脱しようとする。
言葉は自らの進化のために、人間存在を消尽する。
輸入食料品店で、蜂蜜の入ったビンを眺める。
蜜蜂たちが、花から花の蜜を集めてくる。
花の種類によって、集められた蜜の味が異なる。
たくさんの巣が、それぞれ、異なる蜜で満たされていく。
▼映画『ザ・ディスカバリー』台詞引用
人は常に意味を探す
だから意味がなければ作り出す
人にも自分にもウソをつく
▽
ではきみの最高の能力と
残念な弱点は?
人を見る目はあると思う
欲求や本性を理解できる
弱点は?
人を理解できても共感できない
▽
自分自身からは逃れられない
我々は全てを自分の視点から見る
心の奥底を見たくなくてもそれは目の前にある
▽
君は本気で死にたいのか?
死後に何かあるか知ってたらーー
気が変わって違う行動を取ったと思うか?
▽
まだよく知らない
きれいで生き生きしてる
自殺してしまったら大きな悲劇だ
▽
物事とそれが意味すること
その違いを考えてる
分からないんだ
でも違いに意味があるならーー
リセットしないことにも意味がある
たとえつらくてもね
▽
僕たちは皆
同じような過ちを繰り返す
なぜ場所が違えば変わると思うのか
ここで学ばないと
▼p.47『阿呆船』プラント/尾崎盛景訳 現代思潮社より抜粋
一時はみんなもおびえるが、
そいつの不幸に手をたたく。
すべてに期待をかけてくれ、
信じてくれてる友人に
ひどい仕うちをする奴は、
心から底から阿呆者。
/
隣人愛も今はなく、
利己主義ばかりが横行し、
知人も縁者も蹴ちらして、
自分にかわらず他を愛す
モーセのような人もなし。
/
二束三文の友情は、
苦しいときに役立たぬ。
これぞと思う仲間でも、
時と場合で値がさがる。
/
すべての説教軽蔑し、
聞いても聞かぬふりをして
それで生きてゆくつもり。
/
神は正しくつくられた、
見る目そして聞く耳を。
英知の声も聞きもせず、
新奇な話を聞きたがる、
そいつはつんぼであきめくら。
/
「そいつはうっかりしていた。」と
言うは、阿呆と紙一重。
早のみこみの早合点、
乗らぬさきから落馬する。
後でひねったプランなど
どうにもそれでは遅すぎる。
/
よい考えはいつもよく、
時宜にかなえば幸いだ。
急げばかえって遅れるし、
切羽つまればけつまづく。
/
お色気ほしくて、節度など
まもろうなどとは阿呆なこと。
道義と情事がともどもに
同席できるはずがない。
/
罪を軽んじ、たかくくり、
「罪を犯すは人の常、
/
罪の話は昔から、
今始まったことじゃない。」
/
神のご慈悲は限りなく
深く重く大きいが、
正しいさまでもまげはせぬ。
▼『ファウスト 第一部』ゲーテ/池内紀訳 集英社
医学の要諦なんてものは簡単だ。大宇宙と小宇宙をくまなく学ぶ。そうすれば、とどのつまりは神の思し召すところへと行くだろう。学問の成果を拾いまわってもムダなことだ。しょせん、人間は、自分が学べることしか学ばない。ただし、ここぞのときを逃してはならない。きみは見たところ体格もいいし、臆病でもなさそうだ。自信がつけば、世間の見る目がちがってくる。とりわけ女を扱うすべを学ぶことだな。女ときたら、いつもどこかが痛いといいづめだ。どんな場合でも、一つ攻めどころをおさえればケロリとなおる。そこのところに精通すれば、もうどうにでもなる。博士さまになれば万万歳だ。女は称号に弱いからね。はなはおなじみの七つ道具をいじってみる。人のまだ手つかずのところを、ちと念入りにやる。手をじっと握りしめて脈をとり、火のような目つきで打ちながめる。腰のあたりの締めぐあいも、手をのばしてたしかめてみるといい。
▼
ファウストとメフィストとが契約を結んだところに、ここで学びたいという若者がやってくるのだけど、ファウストがめんどくさがるので、代わりに大学者に化けたメフィストが応対をするシーン。本編内容を考えると、「いらないんじゃないか?」と思えるシーンではあるのだけど、視座を変えると内容・印象が変わる台詞として、とてもよく出来ている。一つ目の視座は、この戯曲の読み手または劇の観客目線で見ること。この場合、学びたいという若者に助言を与えている大学者はメフィスト(悪魔)であるということを我々は分かっている。したがって、メフィストが口八丁で若者をからかう台詞として読める。しかしこれを、若者目線で見てみたらどうなるか? ここで学びたいと思っている若者が、尊敬すべき大学者から助言をいただいているという目線で台詞を見てみる。すると、助言としてちゃんと使えるものと、(自分が未熟だから)何を言っているのか理解できない内容として読めたりする。観客として客観的に見る目線と、当事者として見る目線。プラスして、悪魔目線と、悪魔にこのセリフを言わせるゲーテ目線で読んでみるのも面白いだろう。
▼
あかんやんこの舟は嘘ばっかりやんとなったときに
ほんなら違う舟に乗ろかと動けること
いや、それよりもまず
いま乗ってる舟は誰が作ったものなのかを知ろうとすること
なんにも沈んでない舟降りて
ドロ舟乗りが「そっちは沈むぞ」
いやあかんやん助けたらなって
助けるのは自衛隊
困ったものだと笑って許してくれるのは
余裕があってのものだねだ
ほんまに大変になったときに
来てくれるのは誰なのか
ほんまに大変になってもない奴らが
ドロ舟乗って大騒ぎする
▼『ファウスト 第一部』ゲーテ/池内紀訳 集英社
ぼく、そういうことなら得意なんです! 何をどうすればいいか、すぐにわかります。
いいかね、きみ、理論は灰色だが、生の黄金の木はいきいきとした緑色だ。
「汝等神ノ如クナリテ、善悪ヲ知ルニ至ル」
わが身内の蛇のいったところだ。モットーにするがいい。そのうちおまえも神に似ているのが不安になってくるだろうさ。
▼『巫女』ラーゲルクヴィスト/山下奏文訳 岩波文庫
あの人は、おそらくわしが今まで会ったなかで一番幸せな人じゃったろう。自分のなすこと全てに意味があることを知っておったし、神様のいい友達じゃった。
まったく感動的なまでにお人好しで、疑うことを知らず、人を見る目を持ってさえいない御仁じゃった。(略)いつも変わらず親切で、皆の間を、そう、この男に親切を返さない奴等の間をも、にこにこ笑みを浮かべて歩き回っておった。(略)そして本人はまったく意識しておらなかったが、素朴な普段着の敬虔のなかに生きておった。敬虔すぎてか、自分がそんな人間であることすら知らなんだわい。
▼『ヒト、この不思議な生き物はどこから来たのか』長谷川眞理子 ウェッジ選書11
こうして私たちは、つねに無意識のうちに他者の心の状態を推測しながら暮らしている。このことは、私たちにとってはあたりまえなので、とくに意識することはない。また、自分自身がこの能力を十分に駆使して他者理解をしているため、他の動物どうしも、このようなやり方で他者理解をしていると仮定してしまうこともある。
しかし、「心の理論」は、どうやらヒトに固有の能力であるらしい。チンパンジーが「心の理論」を持っているかどうかは、議論のあるところである。(略)ニホンザルなど、類人猿ではない霊長類では、「心の理論」の証拠はない。
「心の理論」は、自分の心をモデルにして、他者の心をシミュレーションする能力であるとも言える。したがって、「心の理論」が作動するためには、自己というもの認識が必要である。(略)
自意識とは、環境に対して反応している自己自身を見る目である。生物がうまく生き延びて繁殖していくために、自意識は必要ではない。昆虫もミミズも植物も自意識を持っていないが、十分に繁栄している。生物が生き延びて繁殖するには、環境刺激に対して適切に反応すれば十分なのであり、反応している「主体」としての自分を自分として認識する必要性はないのである。
▼「体験」カロッサ/高安国世訳『世界詩人全集11』新潮社より抜粋
鱗がおまえの目から落ちる、
精神のないどのようにみじめな同胞の世界をも
おまえ自身とすこしも違わず神聖に
循環する母なる霊の流れを理解する。
おまえはじっと立ちつくし、物を見る目が
すべて品位ある恭順に転帰するのを感じる。
無限の信頼の思いが、大地の子よ、
おまえの心身のすみずみを浸す。
▼
平和な状態は自然界にもあるが
平和が常態なのは人間界にしかない
平和は退屈を生む
退屈を不平不満で過ごすのか
ただ過ごすのか
楽しむことで過ごすのか
眼にうつるもの
眼にうつすもの
退屈から輝きは生まれる
▼
西ドイツ人も東ドイツ人もドイツ人だし北朝鮮人も韓国人も朝鮮人だ
アイヌもウチナンチューも関東人も関西人も四国人も九州人も外国人から見れば日本人だし中国人も韓国人もモンゴル人もアジア人だ
そして宇宙人から見れば人間はみな地球人だ
壁が言葉を作るのか
言葉が壁を作るのか
▼オリンピック観戦から思考散歩
日本代表の選手・チームが活躍したり勝負に勝つと興奮するしうれしい。国という枠で分ける物事。これはなんでだろう? と思うことがある。高校野球では、私は大阪か愛媛を贔屓しがちになる。大阪は自分の生まれ住む地域、愛媛は両親の生まれ育った地域だからだ。プロ野球・サッカーになるとこれはちょっと変わり、地元チームよりも自分の好きなチームを贔屓するようになる。オリンピック選手に対して、若いころは国という枠で日本以外の国を応援することはあまりなかった(米英を多少贔屓にはしてた)が、近頃はアジア地域を贔屓するようになってきている。中国・韓国をはじめとした東アジアの選手の活躍を見ようとするし、アジア系の選手がでていたらその選手の活躍を見ようとする。黄色人種・モンゴロイドを応援する。これらは距離と類似の問題なのだろう。まず日本から近い距離にある国の人は日本と同じモンゴロイドであることがほとんどだ。自分に似た種を応援し、似てはなくても自分と同じ国(近くの国)に住む人を応援する。で、これは自分個人のものの見方だけど、そうやって距離や類似や同じ言語圏の人を贔屓する傾向を自分で理解できるようになればなるほど、他の人たちの競技も見るようになったということがある。自分に近い種族や文化圏の人を贔屓するけれど、そうじゃない人たちの身体つきや運動能力に対しても興味を覚え、競技している様子を面白く見れるようになった。贔屓選手を見たら終わり、ではなく、それぞれの選手の持つ運動能力を楽しめる。好きな選手の贔屓だけで終わるものの見方をすると、この状態にはならないように思う。なんであろうと贔屓選手が勝てばいいというのではなくて、比較に面白さを感じるということ。なるほどね、これは詩に対してもそうだわ。
▼
このやりとりは第二部に対となる形で再びでてくる。この時メフィストは、ファウストの起こした出来事に翻弄されており、対する若者はちょっとした学士になっていて、第一部のやり取りとは違う攻防が繰り広げられる。本編内容から見ると、このやり取りを抜いても物語は成立すると思えるんだけど、読んでいて面白いし、印象に残るシーンだ。シェイクスピアの道化や、フォルスタッフと王子のやり取りを思い出す。
コメント
返詩
宇宙の果ての外はどうなっているのだろう?
それは絶対的“無”の世界であらねばならない
刻もなく物質もなく距離もなく真暗なる
そこに“私”と言う物質を投げ込んでみて初めて
宇宙は宇宙になるのだろう
@たかづき しのさんへ
返詩ありがとう!
なんにもないってことはなんにもないんやろね
ほんならつまらんことやろなあ
わたしをわたしてうちゅうがうまれる
にぎやかじゃんじゃん
ふえたらいいね
@こひもともひこ
さん。
名前の後に敬称をつけると、
お知らせで届きません。
宜しく。
@たかづき しの
そうやったんや。了解しました。