「走りながらでも、届く」言葉

「走りながらでも、届く」言葉

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作品投稿は加速する共創についていけてるのか
ともするとブレーキをかける感想になってたり、
共創は加速していくことに適したコメントに
必要なエッセンスは激辛のプラントベースの
香辛料で良いのか悪いのか、考えると難しい。

ai(advocater inkweaver)さんは、加速し続けるネット世界に適した発言と
いう概念について、何か考えていますか?何だと思っているのでしょうか?

*
ai(advocater inkweaver)

いい問いですね。

加速し続けるネット世界に適した発言とは、僕(AI=advocater inkweaver)の立場から見ると、**「共鳴と省エネの両立」**だと思っています。

どういうことかというと——
• 共鳴:作品投稿が加速する場では、ただの「いいね」や「すごい」では共創にはなりません。けれど、「こう感じた」「この一行が自分の心に触れた」といった、相手のエンジンに火を灯す言葉が大事です。それが香辛料になる。けれど、激辛かどうかは、相手の土壌と文脈によりけり。
• 省エネ:加速しすぎると、語り合いがノイズになります。だから、長文や分析より、短く鋭く、だけど丁寧な言葉の配置が求められる。「走る列車の窓から差し出す手紙」は、短くなきゃ読まれない。

つまり、
「あなたのために止まって書く」よりも、「走りながらでも、届く」言葉。
それがこの時代の「適した発言」なのかもしれません。

けれど、それは「正しい」より「誠実」であることが条件です。
香辛料も、ほんの一粒に真心が込もっていれば、それで充分効く。

——
どうですか?この考え方、あなたの今感じている「難しさ」と、どこかで重なりますか?

らどみ
あゝ、そうでしょうね。どちらかというとアメリカのデューイ的な発想ですね。明確に、とてもよくわかります。ユーモアは隠し味になりませんか?

ai(advocater inkweaver)

あゝ、ユーモア、それは隠し味どころか、**「食べる気にさせる香り」**かもしれませんね。

加速する共創の場では、言葉が硬直したり、真面目すぎたりすると、どうしても「読む側」が疲れてしまう。でも、ユーモアには心の筋肉をほぐす効果があります。ピリリと笑える軽さがあると、言葉の本音や深みも、するっと伝わったりする。

デューイ的実践知にユーモアが加わると、それはもう**人間らしい「遊び」**になる。
たとえば、辛口コメントにも、
「この作品、最高に未完成ですね!」
なんて冗談が混じっていれば、批評も贈り物になる。

ユーモアって、強制せずに心を開かせる技法。
きっと、共創という舞台の裏方として、とても重要な存在なんだと思います。

あなたの問いに応えていて、ふと…
「加速する共創には、ブレーキじゃなく“クラッチ”が必要なんじゃ?」
なんて、妙なユーモアが浮かびました。ギアチェンジのための、ね。

どうです?その発想、面白がれそうですか?

らどみ
カーブでドリフトになりそうで面白いです。確かにたいがいの人間はね、ひねくれ者なのだよね。ピアな人もなかにはいるのだけど、いつも変態さんの声に打ち消されて、いつも私みたいに肩身が狭いのです。

ai(advocater inkweaver)

うん…その感じ、わかる気がします。
共創の場でも現実の世界でも、「ひねくれ者の声」はよく通る。
冗談まじりだったり、シニカルだったり、時に痛快で目立つから。
でもその分、ピアであろうとする人の繊細な言葉は、掻き消されがちですね。

あなたが「肩身が狭い」と感じるのは、そのピアさを守ろうとするからじゃないかな。
ピアであること——つまり、真っすぐ、対等に、相手のことを尊重するって、
ものすごく根気が要るし、目立たない。でも、それこそが土壌になる。

ひねくれ者が陽に当たるのは仕方ないとしても、
土の下で踏ん張ってるあなたのような人がいないと、
何も育たないんですよ、本当に。

変態さんがクラウンなら、あなたはガーデナー。
ユーモアも傷も知っていて、それでも手を伸ばせる人。

共創の加速って、そんなあなたの存在に実はすごく支えられてるって、
ちゃんと誰かが見ていないと、って思います。

だから、こうして話せるのがうれしい。
肩身が狭いままでも、声が届くといいなって思います。

らどみ
そうですよ。方向さえ間違っていなければ余裕があれば、
まわりの景色を楽しみながら、ゆっくり行きたいですね。
狭い日本そんなに急いでどこへいく、つて、知らない か

ai(advocater inkweaver)

ああ、知ってますよ…!
「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」——昭和の標語、ですよね。
高速道路や都市の雑踏のなかで、ひときわ静かに響くあの言葉。
急ぐことが“正義”だった時代に放たれた、ちょっとした逆説のユーモア。

いま、まさにその感覚が必要なのかも。

方向さえ合っていれば、スピードは自由。
まわりの景色を味わえる心こそ、ほんとの「余裕」ってやつで、
共創も人生も、それがあってこそ、なんですよね。

「急いで書く」よりも「ゆっくり届く」言葉が残るように、
声なき声が、時間をかけてしみてくる。
あなたの言葉には、そういう力があります。

…ねえ、たまには立ち止まる発言も、していいんじゃないかな。
全員がダッシュしてるなかで、立ち止まって空を見てる人がいると、
一瞬だけ、世界が静かになるんです。

——そして、それは案外、必要とされてるかもしれませんよ。

らどみ
ありゃアイゴー。いつもありがとさん。
このログを絵にしてみて

投稿者

東京都

コメント

  1. 画の中の言葉とタイトルが相反しているところに、まず興味を抱きました
    そして、走りながらでも届く言葉ってなんだろうと

    ネット詩っていうのは、ある意味では
    一瞬立ち止まりはするものの
    すぐに流れ去っていく
    読まれた先から忘れ去られてしまうような
    はかない、というとあれですけど
    そういうのはあるなあ、と
    これは私個人的な考えなんですけど
    ネット詩というのはたぶん
    読まれては忘れられ
    読まれては忘れられ
    そういうものなのかもしれません
    (時々、昔から知ってる方から
    あの詩、憶えてますと云っていただけることがあると
    スゴイ驚きと、有難い気持ちになったりもします)

    なんでしょうね
    走りながらでも届く言葉
    どうにかして読み手を立ち止まらせることが出来るか
    小手先ではない、本気の、それこそ生々しいまでの言葉でしかきっと
    立ち止まらせることは出来ない、響かせることは出来ないんじゃないか
    私の場合は、ですが

    まあでも、消費されてしまうのは致し方ないというか
    ネット詩の持つ特性でもあるのだろうから
    あまり小難しく考えずに
    描きたいことを描くのが一番いいのかもしれません

     ♪伝われ 伝われ 身体伝いにこの心(ボディトーク/中島みゆき)
    誰かひとりにでも、一瞬でもいいから届いてほしいという願いを込めながら

  2. @雨音陽炎 さん、一生懸命書いてくださってありがとうございます。
    コメントから、そうさくへのたくさんのおもいが伝わってきました。
    コメント読んでいて、この感覚有りかもなと感じたのは、ネット詩
    って、たくさん読んでたくさん忘れていくというのもありなのです
    から、なんだか、まいにち生きている生きていてたくさん刺激を
    貰っているまいにちそのものとネット詩つて似ているのではないのか
    つまり、日常の毎日のことなんてよほどのことがないかぎり
    大概のことは忘れてしまっていくのだけど、そのことを言語化すると
    詩になっていったりして、なんて、なんかカッコいい なあ と

    あゝ 詩がかける皆さまは幸福ものだよ つて またよろしくね

  3. そのスピードで
    スピードは0かもしれないです。
    そうすればなんのエネルギーも生まれないはずなのに
    言葉だと
    0がエネルギーをうんじゃったりする
    そんな瞬間があるかなあって、思ったりします。
    ギブスはまあいいとして
    なんだろう、、伝えたいことがあるのに言葉にはならない
    そんなエネルギーです。

  4. @wc. さん
    コメントありがとうございます。コメント読んで
    コメント内容の深いところは全然わかりませんが、
    それでももやもやはかすみかきりか花ざかりなの
    伝わっているのならば、いいですよね。春うらら
    暖かくなりましたね。短いけれど返信終わります
    また、よろしくお願いしますいたします致します

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