キャンバス
女の顔が街の中で
わたしを睨んでいた。
それは狙いを定めた狩人からの
匂いの怒りというよりは
彼女の生き方の癖のように
映った。
ちらと横目に見た
家電量販店の液晶スピーカーからは
ひび割れた音声が、
鼓膜を通って心を劈く。
… …
4K
口々に囁く人々を背にしながら
いったいどんな色を映したいのかと
わたしは怯え、
やはり鮮やかで鋭敏な
画面を覗きながら
先程とはちがう女がまたわたしを睨んでいる
キャンバスになる覚悟をした。
なるべくおとを聞かれないように生唾を飲み込んだ。
間違いなくいやらしい音だったと思う。
ドアをくぐって外へ出ると
風は容赦なく砂を運んで息をする。
わたしは
善良の影を
はがしきれずにいる。
べっとり汗を真っ向から受け
夏の接吻に参りながら
「女のキャンバスになりたい」
そんな思いが猛烈に湧き上がってきた。
… …
ここにいる
わたしの影が
どんな性別を纏おうとも
もう必ず
女のキャンバスになりたい。
熱い想いがそこから溢れている。
渇いていて
導かれて行く
わたしの中でなにかが膨らみ始める。
絶望を拐かすのなら
女でなければいけない。
かなり重そうな、20キロはゆうに超えていそうなキャリーケースを
女は必至に引き摺る。
もしあの女が怒り狂ったりしたら
わたしの胸の中へ
どのように酷い絵を書き立てるだろう
背中がゾクゾクした。
… …
「すみません、すみません」
キャリーケースの女はおよそわたしの期待を裏切って謝り続けていた。
どんな貧相な筆でもいいから
他人の血で汚れていようが構わないから
この背中に翼を描いて欲しい
わたしを睨みつけた女たちはみんな
キャンバスを探しているのに違いない。
昨夜、深夜の一時あたり
恍惚との別れにひと晩中怯えていたわたしは
もう関係がないと思うほどには
弱く彼女らを愛している。
蝉の羽が戯けたように震えた気がした。
死に際にすらわたしを励ましている。
… …
退勤して行く大人と
筆を失ったような顔の子どもらが
行き交う街で、
気がつけば夕映えが
また別の女の横顔を照らしていた。
どちらの顔が淋しさを求めているかわからない。
わたしたちは
静かに愛を牽制しあうように
見つめあって、いた。
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