ある詩人の絶筆
空には羊雲
空の底には私
私のほほにそよ風
そよ風に
無限の光
思い出して
あのまなざし
まなざし深く静か
遠く
遠くて近い
魂
あのまなざしの魂
まなざしの魂と
近くて遠い
大切な悲しみ
大切な悲しみとは たとえば
二度とは呼ばれない名前
二度とは返事を出来ない名前。
ここで終わるのか
私の一生は
幸せな一生だった
と
今の内に言っておこう
ありがとう
と
空には羊雲、
空の底には
空の底には通りすぎたそよ風の忘れもの
そよ風の悲しみに
無限の光
無限の光と
無限の影
かつて
在った
私
コメント
ピアノソロの高音部とか、あるいは低音部だけが片手で奏でられている、そんな雰囲気の詩に感じました。決意というものを斜めに担保して、表層の言葉を誠実に打ち込む……と、それはモノローグのようにも宣誓のようにも見えて、神にそっと誓う……と、わたしなら思ったと思うのですが、そんな静謐。高音部か、低音部か、それは読者には区別がつかないけれど、片手だけで語られる情熱、といったようなものを感じます。その不足というか欠如が、この詩の骨格のように思えるのですよね。
@大町綾音 さん ありがとうございます♪
まず、この詩を 音楽として捉えてくれたことに、ありがたさを感じます。
そして、それは、ピアノソロを『片手で』弾いているとのこと。その欠如が、この詩の 骨格 のように思える、とのこと。うむ。
この詩に出て来る「私」は、必ずしも私こしごえと同一人物では無い、という点で、欠如しているのかも。ええ、でも、ある詩人、というのは、きっと私こしごえ自身のことだと思える。
まあしかし、この詩を書いている時点では、ある詩人、というのは、私こしごえ自身のことなんですよね。
まあ、これらを含めて、もちろん、この詩を どう読むかは、読者の自由ですからね。うん。自由に読んでくれたほうが、この詩も嬉しい、と思います。^^
絶筆という作品のセルフ・エピタフですね。
思い出すのはむかし潜って泣いたことのある
滋賀県が育てた、福祉思想家の糸賀一雄の
「この子らを光に」ですね。
言葉を外に向けて、そして自分にも向ける。
私も描けるようになったら絶筆してもいい
かな。
才能ないのでかなうならばのお話しですが、、、
@足立らどみ さん ありがとうございます♪
セルフ・エピタフというんですね、こういうの。
でも、糸賀一雄さんのことは知りません。
らどみさんは、ご自分のことを、詩人では無い、と思っているのかもしれませんが、
らどみさんは、立派な詩人ですよ。
昔、私が、東京に住んでいた頃、あるライヴイベントで、美術家(パフォーマー)の黒田オサムさんが、私に言ってくれました。
「詩を書いていれば 詩人だよ」と。
らどみさんの書くものは、詩ですよ。だってそう感じるんだもん。
今日は、もう休みます。おやすみなさい、拝礼^^