老いたわたし

 老いたわたしは、外界を拒絶する。批判を拒絶する。それは海を前にして、海を畏怖する心に近い。そこにあらわれる、巨大な魚群や、怪物の陰をおそれる思いに近い。わたしは拒絶する、そして従順となる。白髪になった髪をなで、安堵の息をつく。わたしは誰からも取りざたされなかった、と、ある夕日の差す午後に思うように、わたしはあるいは本のなかの一個の活字になり、饒舌のなかでの沈黙を楽しんでいる。本のなかの「e」がもの言うだろうか? たぶん、それはないのだ。「e」は「e」として沈黙している。その「e」が「People」のなかでの「e」になったとき、わたしは初めて我に返り、落日の海をむしんに見つめだす。──そこに寂しさはあったか? 寂しさはあった。そこに悲しさはあったか? 悲しさはあった。そこに喜びはあったか? どうなのか、わたしには分からない。わたしは、ただ、老いた髪と老いた顔を鏡のなかに見つめ、そっと櫛(「comb」)を取り上げる。ただ、落胆の調べをまとうのでもなく、わたしはうなだれる──そこに入り込む慈善の余地はない、神の救いの手さえ……わたしは払いのけるのだ、ここに「我あり」と示すように。そして、海豹たちが海へと帰っていくように、わたしは心の海のなかで入水する。沈黙との婚礼。老いたわたしは……と、ここでわたしは原初に帰り、はじめての瞬きをする。生まれて初めてかの瞬きのように……そして、そっと一つだけの息を吐くのだろう。わたしの思いは日記に記されていたか、わたしの思いはウェブに記されていたか、わたしの思いは宇宙のレコードに記されていたか、……と。ため息が、わたしを救うのだろう。突然の雨が降ってきて、わたしは濡れる。水が生の象徴であるように、わたしは踊る。その……道化た舞踊(=おどり)。わたしは姿を失い、生気を失い、こころを失い、朽ちていく。わたしを咎める者がもはやいないように、わたしを救う者ももはやいない。暮れて、闇に包まれるのだ。その温かさよ! ……幾千の夜の果てに、わたしはあったか? 幾千の朝のしまいに、わたしはあったか? 幾千の昼の途上に、わたしはいたか。今は、もはや確かめるすべもない躯(=むくろ)となって、わたしは遠吠えをする。──わたしは、悲しい一匹のオオカミであったのか……すべてはこの夜のなかで夜伽のなかに仕舞い込まれる。

投稿者

宮城県

コメント

  1. この詩から、自恃を感じます。
    中原中也しゃんが、詩「盲目の秋」で言ってますね。

    「これがどうなろうと、あれがどうなろうと、
    そんなことはどうでもいいのだ。

    これがどういふことであろうと、それがどういふことであろうと、
    そんなことはなほさらどうだつていいのだ。

    人には自恃があればよい!
    その余はすべてなるままだ・・・・・・

    自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
    ただそれだけが人の行ひを罪としない。」
    (『山羊の歌 中原中也詩集 佐々木幹郎編(角川文庫クラシックス)』内の62ページより)

    長めのものは、私は、読みにくいのですが、
    この詩は、句読点などの配置が絶妙で、スラスラと拝読できました。
    綾音さんの筆力の高さが、そうさせたのだと思います。

  2. @こしごえ
    様。やっぱり長いかなあ。長いかな(笑)。まあまあ。筆力というかリズム感ですね、筆力であれば中身も必要とされますが、リズム感であればそれこそ音感だけでいいので。「盲目の秋」……ですかあ。「老いたる者をして」とかはさすがに意識していましたが、そんな大家の作と比べるべくもなく。なんとはなしに、わたしの実感であればいいので。ありがとうございます。

  3. 言葉を幾重にも折りたたみ解説通りに紐解いていく
    愉しさを感じました。この作品が詩なのかではない
    のか僕にはわかりませんけどAIに自動作成させた
    符号には最後の一枚を解いた後にも何もないけれど、
    AIは逆説的に現代詩が書けるともやはり思えなく
    僕たちネット詩民の景色にただよう匂いやビジョンの
    束になって脳裏に入ってくる感覚はAIには無理なん
    だろうなぁとあらためて思うことができました。感謝

  4. @足立らどみ
    様。AIはAIで別種の生をもっていると思いますが、ありがとうございます。まあ、どのように読んでいただいても。特別な工夫をした詩ではないですし……

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