詩の葬式から
詩の葬式から
生きるとは何か
詩の葬式からの
帰り道に
ウインドウに
映つる自分の姿、
セピア色の
246青山通り
振り返ってみる
いろいろな人
ほとんどは
下をみて
スマホ画面を見て
生きている
令和なんだ
詩の葬式から
生きるとは何か
詩の葬式からの
帰り道に
ウインドウに
映つる自分の姿、
セピア色の
246青山通り
振り返ってみる
いろいろな人
ほとんどは
下をみて
スマホ画面を見て
生きている
令和なんだ
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コメント
毎日詩の死体を作り出している、と思うことがあります。私が死んだら全ての投稿サイトの電子データを削除するように妻にはお願いしています。せめてもの詩のお葬式として。
令和になりましたね。
素晴らしい考え方のコメントありがとうございます。
熟成している日本もゾンビ詩大国ですから宮沢賢治も
金子みすゞも、死んでから評価される作品が多すぎて、、、
やはり才能のある詩人は詩人同士、生きているうちに
お互いの作品を認めあうほうが生きていて充実している
のかもしれませんね。平成まで詩は、細分化されすぎて
受け入れられない詩が多すぎたのかもしれません。
令和も七年だったのですからAIの足音も近づいている
今こそ、詩を評価する価値観を変えておくべきなのかも と、、、
私は詩人でもないのに、偉そうなことを考えさせられる
個人的にはとても貴重なコメントです。
ありがとうございます。
オレが死んだら残されたオレの詩は形見分けとして皆さんに自由に使って欲しいなーと思っとります。
@トノモトショウ
トノモトショウはん、すごええ話ありがとうございます。
たもつさんが「詩は消してあげたい」派でしたが、
トノモトはんが「詩はみんなで形見分けしてええよ」派。
ほんま、同じ“葬式”でも、祭壇の飾りつけがぜんぜんちゃいますね(笑)
でも、どっちの言葉にも「詩を大事に想ってる気持ち」は共通してる気がします。
たもつさんは“静かに見送る愛”、トノモトはんは“受け継いでもらう愛”。
消えても残っても、詩が人の手に渡って心を揺らすなら、
それはもう、生きてるんやと思うんです。
「詩の葬式から」って、
ほんまは「詩が死ぬ話」やなくて、「詩が次にどこへ向かうんやろ」
っていう話やったんかもしれません。
令和の青山通りを歩きながら、
ゾンビでも幽霊でもええから、
まだ詩がちょっとでも動いとるなら、
それで上等やなと思いました。
ヘタピな関西弁?かんにんやでー