横軸の風景 縦軸を生きる人々
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たったいま、すべてがクソのようだと思った人たちがいた
たったいま、しょせんは最低にクソに終わると叫ぶ人たち
たったいま、すべてが茶番に見えた人たちがいた
たったいま、しょせんは茶番だと吐き捨てる人たちが見える
こんな恥辱を生きる人たちの夜
こんな恥辱かもしれない明日もじきに人たちへ降ってくる
こんな恥辱を繰り返すかもしれない人たち
こんな恥辱を前から知っている人たち
こんな恥辱に殺されるかもしれない人たち
こんな恥辱に終ってしまった人たちの人生
こんな恥辱・・・・・・
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1.
堀尾先生、僕が先生のもとを離れてちょうど1年。この街に住んで四ヶ月ほどになります。
この街は時折僕には美しくも不思議な街に思えるのです。
この街のビルはとても美しいです。この街のビルディングと比べればその高さと優雅さは京都のそれは及ぶものではありません。ただこの街で見えるものは僕が京都や大阪で見たものとは、ひときわ厳しい風景に思えてくるのです。
たとえばホームレスの人たちのブルーテントです。この街で出会った公園の幾つかには必ずあの人たちのささやかな住処がありました。でもたとえば大阪の天王寺にあるホームレスの人たちの街とは全く別個の色彩を感じるのです。
大阪の新世界界隈に住む人たちのねぐらには文化がありました。寿司屋や家具屋、いろんな店がありましたがその風景はホームレスの人たちの暮らしに寄り添うものに感じられました。なかには俳句や短歌をたしなんで、それを書き付けた彼らのねぐらに出会うこともありました。
でもこの街にはそういった文化の余裕などは微塵も感じられません。美しいビルディングの高層からの明かりはブルーテントには決して注がれることはないかのように。ホームレスの人たちの住む公園には、それを包囲する人たちとの暮らしの間に明確な鉄線があるように思えます。ブルーテントの人々の営みには、地下水が見えないようにひっそりながれようとするかのような、なんとも切ない哀しみを僕に印象させている気がするのです。
雨の日に通りすがるあの人々の住処には時折傷みのようなものを感じて足早に通り抜けようとしたい自分を感じるのです。
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2.
堀尾先生、僕が数週間前からソーシャルワークの実習に向かっている精神科病院を先生が訪れたら、本当に驚かれることでしょう。千床ものベッドがあり、これはこの街最大です。患者さんは精神疾患を持つ人に定まりません。あらゆる依存症、特にアルコールや覚せい剤、大麻、ヘロイン、その他諸々の薬物を経てきた人々に出会います。そのうえに僕が公園で出会うようなホームレスの人たちの収容施設の代替機能も持っています。
僕はこの病院で、自宅を放火した措置入院患者の少女から歌声を聴かせてもらったことがあります。彼女は歌手を目指していて一時はCDも出したそうです。また、自分の名前を名乗れない行方不明者とされる人々も少なからずここにはいます。
この街は港町ですから、いろんな人たちが流れ着くところです。先日、認知症を病んだ老いた女性たちのレクリエーションに参加しました。彼女たちとともに演歌の懐メロを楽しんだ後にそのカルテを見たのです。ある女性は東北に生まれて東京や大阪、博多などを経た後にこの街へ単身たどり着いて故老としてここが終の棲家となりました。彼女はその生涯の多くを売春によって生計を立て、育て上げた自らの私生児に棄てさられ、ここに至ったのでした。
この病院にはほとんどの診療科が揃っています。内科・外科の類はもとより歯科までもがここにはあります。ですが、それらを利用するのは千床ものベッドを住処とする患者さんのためのものであって、決して外来の施設ではありません。この大規模精神科病院は彼らの暮らしをこの建物の中で完結させるために、衣類や食品の売店も含めてあらゆるものが全て揃っています。
この「完結」が意味するところは、街から締め出された人々のためのコロニーが外側から隔たって閉じられて存在していることを示しています。彼らには行き先が他にないのです。
この病院の果たす目的を知り終えた頃に、僕はMさんと知り合ったのでした。
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3.
Mさんと出会ったのは外来のある診療日でした。地下鉄に乗っていて周囲の人間から殺される妄想を感じて怖くなって訪れたのでした。即刻入院となりましたがMさんにとってこれは初めての入院ではありませんでした。
十代の頃からシンナーを始め、二十代の初めに覚せい剤に、途中からヘロインに手を染めたMさんはいわば「常連」だったのでした。三十代を過ぎた彼女には十歳のかわいい目をした息子さんがいます。でも彼はいじめられているので学校には行っていません。Mさんの十歳の息子の父親については誰も詳しいことは知らないままです。
お父さんを知らずに育ったMさんには六十代になるお母さんがいます。兄弟は弟さんがいるのですが、その弟さんは過去に、頻繁に借金を重ねるお母さんの連帯保証人とされることに耐えかねて家出したのでした。弟さんの行方は分かっていません。
Mさんには年下の恋人がいるそうなのですが、彼女は幾度目かの入院前に恋人ともにヤクザから大量の借金を重ねたために執拗な嫌がらせを受けながらも返済しているとのことでした。恋人は薬物の売人でした。
堀尾先生、実はMさんのような半生はこの街では特別ではないのです。彼女は多くのこの病院の収容患者のなかでもありふれた経歴を持った一人に過ぎません。
それでもなぜ、先生に彼女のことを書くのか、僕は明確な根拠を持ちません。僕が初めてケースワークの実習で担当したケースが彼女であったことも含まれるでしょう。ただの実習生にすぎない僕を「先生」と呼んでいた唯一の患者で、そのことが僕にとってMさんの僕に対する親しみの表れとして受け取れたかもしれないから。
いろいろな特徴で僕の関心はMさんに引かれたのでした。彼女のブリーチで痛みきった金髪の剥げた後頭部。病院では一際目立った厚い化粧はかえって美しくさせなかったけれど、彼女を外界から防御するかのように見えました。脱アルコール・プログラムに参加していたときにMさんが「ここにいると感動できる。でも薬物の仲間には共感できない」と呟いたのも、僕の心に残っていたのでした。
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4.
Mさんのお母さんが十歳の息子さんを連れて面会に来たことがありました。
面会室で久しぶりに再会したその瞬間、Mさんとお母さんはいきなり周囲をはばからず号泣を始めたのでした。Mさんは早くお母さんと家で会いたい、とりわけ息子と一緒に時間を過ごしたい、だから外出させて欲しいと医師やワーカーに愁訴するのでした。Mさんのお母さんも同様でした。娘と一緒に暮らしたい、だから早く退院させてやって欲しいとのことでした。
Mさんの息子さんだけが泣いていなかったのです。彼の可愛らしいあどけない目は、どこにも焦点を合わせないと決め込んでいるかのように、彼の沈黙は広い面会室のなかで際立っていました。彼は事情を全て飲み込んでいるかのようでした。
面会が終わった後、立ち会った医師と数人のワーカーたちが押し潰していたものを吹き出すかのように苦笑し始めたのです。男性ワーカーの一人が一言で教えてくれたのです。
「あれは全部ペテンだから」
Mさんとお母さんの号泣、それは示し合わせてこそいなかったものの、互いの利益に基づいてなされた「芝居」だとのことでした。病院から外泊するたびにMさんはヘロインを恋人からもらって打っていたのでした。彼女が愁訴しているのは息子さんのためではなく、自分がクスリを手に入れたいがための涙だと医師たちは見通していたのです。
Mさんのお母さんにしても同様でした。彼女は重度のギャンブル依存を病んでいるのでした。お母さんの意図はMさん宛てに下りてくる生活保護を含む幾つかの給付金にありました。Mさんが外泊してそれらのお金をお母さんに生活費と息子さんの養育費として預けるたびに、そのお金の少なからずをお母さんはパチンコに毎日のように注ぎ込んでいたのでした。
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5.
僕が実習を始めて三週間ほどたったころでしょうか、Mさんは任意入院を解除されてより重い強制入院に切り替わったのでした。Mさんのお母さんがこの病院に「治療」として入院したのはそれとほぼ同時でした。
Mさんの息子さんが養護施設に送られたことは、その後、僕にも伝わってきました。堀尾先生、僕はあの子、Sくんがどうにも哀れに感じて仕方なかったのです。あの面会室での彼の孤立したような沈黙を思い起こさせられるのです。もとよりMさんや、そのお母さんに対しても、僕の憐憫が引かれなかったわけではありません。
先生、僕と彼らの間には、それほどの距離がないように、僕には感じられたのでした。この街のブルーテントで生きる人々、この病院で生きる人々の多くが、僕とは隔たりがない人々のように思えたのでした。
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6.
堀尾先生、お分かりいただけるでしょうか。
僕はMさんやお母さんの人生を裁きたくないのでした。誰の人生をも裁きたくないのです。だから僕のなかで、その人たちはそう遠い人たちではないのでした。
雨の降る日に、この街の公園の片隅に排他された人たちのブルーテントを、足早に通り過ぎたいと思いながら、僕の心はどこかで彼らの哀しみの側を選びたいと思っていたのでした。
この街に来て最初の頃です。美容室に行って髪を切ってもらっている間にこの街に来た目的を訊ねられたので、精神科ソーシャルワーカーを目指していることを告白したのです。
「鬼畜の人たちの世話をする人なわけね」
先生はきっとご理解いただけると思っています。その時の僕の思いを。
この街の美しい高層ビルの直下には可視化されない、目には見えない、人が人に対してする人への裁きがあったのでした。
どのような共感の皆無や、不寛容の伝播がありえるとしても、僕はあえて伝えられることのない、地下水のように流れる人たちへの哀しみの側を選ぼうと思っていました。
「ここにいると感動できる」と話したMさんの、その共感の場所へ僕は立ちたいと願っているのでした。
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7.
この世界で一番確かなのは数学ではないか。僕のその問いかけに先生は激怒されましたね。
戦時中に一人頭同じ分だけ配給される食べ物が、建前の均一だけを保って食べ盛りの子供とそれ以外の人々に区別なく配分される非情さ、そんな数学の愚かさの一面を、激怒して先生は僕に諭してくれました。
そんな数学の非情さのごとき均一の思考こそが、この街の、人々が人々を裁く排他性の根底であるように、僕には思われてならないのでした。
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8.
いま先生が教えてくださった言葉を、僕は静かに思い出しています。
「おまえさんの思想は横軸によって人々の間と歴史のなかで生き抜けるものでなければならない。それが普遍性だ。同時におまえさんは事の次第によっては、ソクラテスが毒杯を仰いだように、悲惨であっても信念で縦軸を生き切らなければならない。それが人生だ」
「この横軸の普遍性と、縦軸の人生が重なり合って直角をなすときに、おまえさんは哲学になる」
あの冬の北大路のキャンバスで先生がお答えくださったときに、僕はそこを生き切る決意をしました。あの日の決意を、あの時の北大路の忙しない人々の往来の風景を、僕は忘れることができないのでした。
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9.
普遍性としてのこの街の光景の中で、僕が哀しみの側の、地下水の人々の側で生き切る信念の人生を、僕はいま希望してやまないのです。
堀尾先生にお願いがあります。どうかこのお手紙へのお返事をお書きにならないで下さい。僕がすぐに先生の言葉に頼ってしまうのは目に見えてしまうのです。
僕が先生に今度お手紙を書くときは、きっと僕はこの街で、哀しみへの共感の側に立てた確証を得られたときだと思います。待っていてください。
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10.
今日も僕はこの街の人々とともに生きています。
この街にはいつも変わることのない横軸の風景のなかで、縦軸の人々が報われない彼らの人生と一緒に、懸命に生きる思いでここに留まっています。
しばらくの間、僕がこの街を離れることはないと思います。
僕の縦軸の人生が、この街の横軸の風景と交錯するまでは。
決して。
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たったいま、少しだけ しくじった 人たち
たったいま、このしくじりの先へ向かわなくてはと 彼らは知っている
たったいま、また彼らが次のしくじりへ 向かうために
たったいま、彼らは誰にも明かさず なじみのしくじりをここに記すだろう
しくじり続ける「たったいま」の痕跡を 彼らが永久に記し続けることを
この尊い恥辱を生きる人たちの夜
この尊い恥辱を永久にたどるかもしれない明日も
じきに生きる人たちへ降りてくる
この尊い恥辱を
この尊い恥辱を。
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コメント
こういうことをいわれるのは不本意でしょうが、底辺の生活を綴って最近亡くなった某芥川賞作家に似た色彩を感じました。社会、福祉、医療の矛盾の深みにあるのはけっきょく人間存在なのでしょうね。勝手な提案ですが、散文詩に拘られるのでなかったら稀有の体験を小説の形で表していただきたいなと思いました。
babel-kさん、ありがとうございます。その作家さんの作品はまだ一度も読んだことはないのです。そういうことなのですね。散文詩の意識だから書けたというのもあります。小説と意識するとまだ書いたことがないので。でもこういう感じで小説が成立するなら一度書いてみたいです。
小説と、散文の、ぎりぎりのところにある作品ですね、読み始めた時は、正直、これは小説ではないかと思いました。でも、読み終えて、これは散文詩でもいいのかなと思い直しています。散文詩にするのであれば、もう少し凝縮されたほうがよいです。
縦軸と横軸の発想。その交わりが哲学になる。ここ、とても興味深いですね。