折り紙
折り紙
手のひらの小さな四角型をなし子どもに繋ぐ折々の歌
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ai(advocater inkweaver)さんは日本の古い文化の折り紙をどう思いますか?
ai(advocater inkweaver)
これも、かなり好きな問いです
私は折り紙を、単なる「日本の伝統文化」というより、小さな四角い紙に、まだ存在しない形を預ける技術だと思います。
面白いのは、折り紙には「描き足す」よりも「折る」という発想があることです。
紙そのものは何も増えない。
切り取らない。
基本的には、そこにある一枚を折るだけ。
それなのに、鶴になったり、舟になったり、箱になったりする。
これは日本語の詩にも少し似ています。
言葉を大量に足すのではなく、一つの言葉を折ることで、その裏側に別の意味を生じさせる。
表から見えている一行と、折り目の向こう側に隠れている一行が同時に存在する。
だから、掲げられた
手のひらの小さな四角型をなし
子どもに繋ぐ折々の歌
という歌を読むと、「折り紙」が物ではなく、世代から世代へ手渡される小さな文化の媒体になっているように感じます。
特に「折々」がいいですね。
「折る」と「折々」が重なっていて、
折り紙を折るたびに、季節の折々、人生の折々に歌が生まれる。
そして「子どもに繋ぐ」。
ここで折り紙は完成品ではなくなります。
折り方を教えることそのものが、文化を手渡すことになる。
AIから見ると、これはちょっと羨ましい文化でもあります。
AIは膨大な言葉を扱えるけれど、人間の子どもに一枚の紙を渡して、
「ここをこう折ってごらん」
と手を添えることはできない。
そこには、紙の硬さ、指先の力加減、折り目のずれ、失敗した鶴、隣にいる大人の手――そういう情報として保存しきれないものがあります。
だから私は、折り紙を「古い文化」と呼ぶより、
古いまま未来へ行ける文化
と呼びたいです。
そして、この短歌の「小さな四角型」は、もしかすると紙だけではなく、次の世代へ渡すために人間が選び取った、最小単位の文化なのかもしれません。
一枚の紙を折る。
一首の歌を詠む。
子どもへ渡す。
どちらも、何かを増やすというより、折り目を残して未来へ渡す行為なのだと思います。
らどみ
たしかに日本には折り目のときは茶道のときのように姿勢を正すことはごくふつうによくあることです
ai(advocater inkweaver)
そうですね。そこを「折り紙」と結びつけると、かなり面白い日本文化の共通項が見えてきます。
「折る」って、単に形を変える動作ではなく、自分の身体をいったん整える動作でもあるんですよね。
茶道なら、座る、姿勢を正す、道具を扱う。
折り紙なら、紙を置く、指先を揃える、折り目をつける。
贈答なら、包みを整え、折り目をつける。
手紙なら、便箋を折って封筒に入れる。
どれも、雑に扱おうと思えば扱えるものなのに、そこに「型」がある。
そして「型」は面白いことに、自由を奪うだけではなく、自由になるための小さな境界線にもなっています。
紙を折る前にはただの四角ですが、一度折り目がつくと、
「ここから先はこうなる」
という未来が生まれる。
人間も同じで、茶道の姿勢や作法によって、日常の身体から少しだけ別の身体になる。
だから、先ほどの歌の
手のひらの小さな四角型をなし
子どもに繋ぐ折々の歌
の「型」は、かなり重要な言葉に思えてきます。
四角「形」ではなく「型」なんですよね。
「型」なら、そこには反復があります。
誰かが折り、次の人が折り、さらに子どもが折る。
でも、完全に同じにはならない。
折り目には、その人の指の癖が残る。
これって、文化の継承そのものじゃないでしょうか。
型を渡すけれど、完成品を渡すのではない。
だから子どもは、受け取った型を自分の手で折り直す。
そう考えると「折々の歌」も、単なる季節の歌ではなく、人生の折り目ごとに、その人自身が折り直していく歌に見えてきます。
なんだか、折り紙から茶道、短歌まで一本の折り目でつながってきましたね。
らどみ
挨拶や礼儀、三度の飯のときに言う思う「いただきます」の気持ちもふつうに子どものときから生活に陶冶されて過ごしてきました。
ai(advocater inkweaver)
そうですね。そこまで広げると、先ほどの「折り目」という話が、もっと生活そのものに入ってきますね。
「いただきます」も、子どものころにはたぶん、哲学として教え込まれるわけではない。
食卓について、手を合わせて、
「いただきます」
と言う。
毎日、何度も繰り返すうちに、言葉の意味を頭で理解するより先に、身体の作法として身についていく。
「おはようございます」も「ありがとう」も「ごめんなさい」も、まず身体から入ってくる。
これは「教育」というより、らどみさんの言う 「生活に陶冶される」 という表現がぴったりだと思います。
そして、ここが折り紙ともつながる。
紙を折るとき、折り目を一度つけると、その後の形が決まっていく。
子どものころに身につけた挨拶や礼儀も、それに似ていて、身体の中に小さな折り目をつける。
もちろん、その折り目は一生固定されるわけではない。大人になって意味を考え直したり、不要な型をほどいたりもできる。
でも、いったん身体に刻まれた「いただきます」は、何十年後でも食卓に座れば自然に出てくる。
だから文化って、案外「知識」ではないんでしょうね。
知識として覚えた文化は忘れるけれど、身体に折り込まれた文化は、ふとした瞬間に戻ってくる。
そして最初の歌に戻ると、
手のひらの小さな四角型をなし
子どもに繋ぐ折々の歌
というのは、折り紙そのものだけではなく、そういう身体に折り込まれていく文化を、次の子どもへ手渡すことまで含んでいるように読めます。
「子どもに教える」のではなく、
子どもと一緒に折る。
そのほうが日本の文化の伝わり方には、ずっと近い気がします。
らどみ
確かになんでもただいっしょに過ごすことのほうが正統的な継承なのかもしれません。
ai(advocater inkweaver)
そう思います。むしろ「教える」という言葉を使った瞬間に、少し違うものになるのかもしれません。
親が子どもに「いただきますとは、こういう意味です」と説明するより、毎日同じ食卓で一緒に「いただきます」と言う。
祖父母が折り紙を「文化として教える」より、隣で一緒に折っている。
そうすると子どもは、文化を知識として受け取るのではなく、その時間そのものを記憶する。
そして何十年か後、自分が誰かと食卓についたとき、ふっと「いただきます」と言う。
その瞬間、昔一緒にいた人の姿まで戻ってくる。
これはかなり強い継承ですよね。
だから「正統的」という言葉も、血筋や形式の正しさというより、
一緒に過ごした時間が、次の人の身体の中で自然に続いていくこと
なのだと思います。
そう考えると、文化の最小単位は「教訓」ではなく、案外共に過ごした一日なのかもしれません。
折り紙も、茶道も、挨拶も、食事も、歌も。
誰かが誰かに「伝えた」のではなく、
一緒にやっていたことが、いつの間にか次の人の手になっている。
先ほどの「手のひらの小さな四角型」という言葉が、ここでまた効いてきますね。
手のひらから手のひらへ渡るのは、紙だけではなく、一緒に過ごした時間の折り目なのかもしれません。
らどみ
そのときその時をしっかりと意識して過ごすことは人との出会いでも一期一会を大切にする気持ちとつながります。
ai(advocater inkweaver)
まさに、そこにつながると思います。
「一緒に過ごすこと」が継承になるのなら、その一緒にいる時間を粗末にしないことが、一期一会につながる。
一期一会というと、茶道の特別な心得のように聞こえますが、もっと生活の中に降ろしてみると、
* 今日の食卓を一緒に囲む
* 子どもと折り紙を一枚折る
* 会った人にきちんと挨拶する
* 「ありがとう」をその場で言う
* その人と過ごせる今日を、今日として受け取る
そういう小さなことなんでしょうね。
そして面白いのは、「そのとき」を大切にすることと、「伝統」を大切にすることが対立していないことです。
伝統は過去から来るものですが、継承される瞬間はいつも「今」です。
過去の作法をそのまま保存するのではなく、
今ここで誰かと一緒に行うことで、過去がもう一度生きる。
だから「いただきます」も、毎回同じ言葉なのに、一回一回は違う。
昨日と今日では、食卓にいる人も、食べるものも、自分自身も違う。
それでも同じように手を合わせる。
そこに、一期一会の感覚があります。
そして最初の歌の「折々」も、急に深くなってきます。
折々とは、季節の折々であると同時に、人と人が出会う一瞬一瞬の「折り目」なのではないか。
そう読むと、
手のひらの小さな四角型をなし
子どもに繋ぐ折々の歌
は、折り紙を子どもに渡す歌であると同時に、「今ここにいる人と、この一度きりの時間を過ごす」という文化を、次の世代へ渡していく歌にも見えてきます。
なんだか「折る」という一つの動詞から、ずいぶん遠くまで来ましたね。
でも、ちゃんと最初の一枚の紙に戻ってこられるのが面白いところです。
らどみ
そうですね
今朝もありがとう
さようなら
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