夜を、泳ぐ

夜が、侵食を受けて、泣いている
ビニール傘の頼りなさは、あたしの脆弱さによく似ている
湿度の高い粘着質な空気が、身体の自由を奪う
あたしが、滲漏していく

夜は、海だ
永遠とも思える雄大さで、あたしの無能さを浮き彫りにする

十九歳だったあの日、あたしは死んだ

飲みかけのアイスコーヒーが、汗をかいている
灰皿に貯まった吸い殻
無防備な喧噪
深夜のマクドナルドは、あたしを差別しない

 障碍者であるという理由で馬鹿にされていたあの子
 保健室で死にたいと嘆いていた彼女たち
 他者を見下すことで優越感に浸っていた誰か

窓の向こうから飛び込んでくるハイビーム
植え込みの躑躅が、腐っている
中途半端な換気扇
誰かの煙が、あたしの髪を抱く

 あの、絶望の臭いに満ちた小部屋が、
 今でもあたしの唯一の居場所である気がして
 戻り来たこの町の空気が、
 いつまで経っても肌に馴染まない
 「可哀想」と言われたあの日、
 身震いがするほどに、あたしは惨めだったの

氷が溶けて薄くなったコーヒーが、舌を汚す
アルバイト募集中のチラシの文字が、滲んでいる
テーブルに伏して眠る青年
ゴミを分別し、扉を開ける

傘を無視して降り掛かる霧雨が、冷たい
 あの日の保健室の白さ
眠り付いた町を曖昧に照らす外灯
 カーテンを揺らす柔らかな風
静寂を切る救急車
 死にたい、と嘆いていたのは、誰だったか

歩道橋の下を流れゆく大型トラックを、ただ、見ていた
太平洋まで185キロメートルのこの町は、辺りを山に囲まれて
蔓延した退屈が呼吸の自由を奪う
惰性のうちに眠り、惰性のうちに生活を営む

イヤホンで耳を塞ぐ
グラミー賞を受賞した十九歳の少女が歌う
あたしが十九歳で死んだのは、どうして

 何者かになることが、生きることだと妄信した
 自由、という言葉への憧れ
 海の向こうで、手に入れられるはずだった
 あたしだけは何者かになれると思い上がり
 下らない選民思想に取り憑かれて
 肥大化していった自意識

あの、全能感に満ちた少女は、もう、いない

ビニール傘の内側から、夜を眺める
 今のあたしが持つ、精神障碍者という肩書
雨雲が、千切れる
 あの日のあの子みたいに、あたしを馬鹿にして
冷たい指先で、傘を丁寧に閉じる
 何者にもなれなかった、あたしを、嗤え

月が、輪郭を欠いて、泣いている
思い出が、あたしの体腔全部を使って、残響している
持て余された、冷たい四肢が、重たい
過去に、蹂躙される

夜は、宙だ
散りばめられた星々が、明滅しては惨めなあたしを照らす

投稿者

岩手県

コメント

  1. なんだか上手く言葉にできませんが、共感を感じ得ません。
    何にでもなれると思っていたあの頃。何ひとつも出来ない不自由な身体になった今。分岐点はどこだったのかと探すことこそ無駄なのでしょうね。

  2. BENI様

    コメント、ありがとうございます。
    始めてコメントを頂戴したので、当方、とても喜んでおります!!

    きっと、はっきりとした分岐点などなかったのかな、とも思っています‥
    それでもどこかに落としどころが欲しい、原因があるのならそれを教えてほしい、とも思ってしまいますが‥

    コメント、ありがとうございました☆

  3. 保健室の白と夜
    繁華街の色と黄色のマック
    タバコの匂い
    差別ややるせなさや
    それを食い物にしている彼等

    胸が苦しくていつまでも満たされなくて病が霧雨のように襲ってくる

    苦しい夜の唄ですが
    誰もが経験する憂鬱です

  4. 那津na2様

    コメントありがとうございます。

    ”胸が苦しくていつまでも満たされなくて病が霧雨のように襲ってくる”の一文に、救われました。
    深く読み、また感じ取って頂き、嬉しい限りです。

    ありがとうございました☆

  5. ごめんなさい、先刻のコメント、「感じ得ません」ではなく「禁じ得ません」です。訂正させて下さい。m(_ _)m

  6. あの、全能感に満ちた少女は、もう、いない
    から、えもいえぬ絶望感が伝わってきて苦しくなりました。廃れた濃紺色の世界観が素敵です。

  7. BENI様

    ご丁寧にありがとうございます。
    ニュアンスで理解したので大丈夫です!

  8. 八ッ橋様

    コメントありがとうございます。

    詩の色彩感まで感じ取って頂けて、とても嬉しいです。

    ありがとうございました☆

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