痴れ者気取り
人と人との繋がりを断ち一人の力で生きていくことが強さだと思っている者がいる。親、兄弟、姉妹、親族、友人知人、恋人、同僚、仲間、それらに頼ることは弱さだと思っている者がいる。だが遠い昔から先祖代々その繋がりを大事に宝のように扱う者もいる。時代の激流の中でそれでも手を離さずに繋ぎ止めてお互いを引き合う者もいる。
「お前はどっちだ」
一人でいることが自分らしくいられることだと思っている。それなのに不安にかられ、自己嫌悪に陥り、自信をなくし、影で息を圧殺すのはなぜだろうか。繋がりの環にいることを受け入れ、全てはその授かりものだと感ずること。それは強さなのでは。ある種のチカラなのでは。それらから遠ざかるほど、弱さに引き摺られてしまうのでは。
「そんなのどっちだっていい」
弱さに浸らなければ気づけないこと
強さを浴びなければ気づけないこと
その逆もある
どちらもある
中心の黄昏の茨道
薄暮
きっと答えなんかない
それでも想像した答えに疑問を持ち
また別の答えを探す旅
苦しみは喜びで
怒りは悲しみで
落ちる涙は虹色で
その堂々巡りに
頭蓋を粉砕して
仕舞いたいけれど
それでも潜るよ
ぐるぐると
ぐるぐる深く
今よりも
あがき
くるしみ
もがもがと
木霊するは阿鼻叫喚
「死にたくない 死にたくない 死にたくない」
てのひらはうえ
コメント
シャバアーサナ中に心に浮かんだ事柄を手放すように詩にされたのかな?と、勝手に(いつも勝手な読み手ですみません)想像してみました。
「逡巡しながらも選択する」という生きることの本質にも似たものへの決意めいた内容がストレートに入ってきます。
本当に人間関係って難しくて、生きることも単純じゃなくて、孤独も触れ合いも同時に求めるし、生も死も甘美で、それでもなんとなく人生が続くという、わかりきっているけど気付かないことを改めて考えました。
@あぶくも
コメントありがとうございます。
はじめてのコメントなのでとてもうれしく思ったのと、投稿してからなんだか怖くて一日サイトを見られませんでした。
シャバアーサナ、調べました。ヨガは興味はあるのですが、行動には移してなくて。
でも仰向けになりながらポチポチしてました。
数年前に、「マタギ」の番組をみて触発されて書きなぐったものを、再編集してみたものです。
不思議です。当時の思いと今ここにいるときの思いが重なるとまったく別のものに変容していくのが。
そして相手が思ったことをこうして知ることができたのも、相手がいるんだなとストレートに感じます。
ありがとうございます。
@トノモトショウ
コメントありがとうございます。
ちょっと前のぼくではそういうことにも気づけなくて考えなくて、ただ翻弄されてぐちゃぐちゃでした。
ずっと頭が重たかったです。
今では、もしかしたら言葉も思考も追い付かないような、そんな風になれたらと思ってみたりするくらいは軽くなれてるのかなと思います。
それでも追い付いてくるみたいです。
人間って厄介な代物です。
宙からの降りものを待つ様を思い浮かべました。
自然現象なのか概念なのか誰かの声なのか。
この詩の吐露のようなこと、考え出すと溢れますよね。
@たちばなまこと
コメントありがとうございます。
たしかになにかを待っているように思えました。
あるいは全て、かもしれませんし、たったひとつのなにか、なのかもしれないと思いました。
それらを探しに潜ったはずなのに、苦しくて手を伸ばしている様を思い浮かべました。
ドバドバと恥ずかしいと思いましたが、こうして返ってきてくれて、うれしくて、綴ってよかったなって思えました。
成仏したようなここちかもです。
きっと本当はその考えからも抜け出して駆け出して宙を舞いたいのかもしれません。
ありがとうございます。