廃人メモリー

  
                        

 詩とは、紙とペンさえあれば、拘置所や留置所の中でも書ける、最もシンプルで、パワフルな芸術表現です。ここ数年、私は、刑務所の中で、一人黙々と、ペンを走らせる自分の姿を思い浮かべるのです。でも、そこには、ビートルズのロングアンドワインディングロードや、チャップリンの独裁者のラストシーン、私が人生で心に残った映画や音楽、私が出会った全ての人々が、常にいるのです。ネッ、素敵でしょ? そこでは、小鳥の囀りが聞こえます。春の木漏れ日があります。私がもし、そこでその音と、その映像を心に描き、私がその中で描き続けたものを、皆が読んだ時、それまで私を認めなかった全ての人々が、私を本物の芸術家だと認めてくれる気がするのです。でも、とっても悲しいことがあって、その時、私はこの世にいないということです。人は、生きて永遠を手に入れようとしました。人が死ぬということは、今、この瞬間を手放すということです。人は、生きて永遠を手に入れることは、出来ない。人は、死んで初めて永遠を手に入れることが、出来ます。五感の世界で、得られる知覚体験は、生きて、生を味わうために、あるのです。第六感、直感の世界で感じる想像力の世界は、今、この瞬間の中にはない。詩とは、書くこと、生きること、越えていくこと。そして、その想像力の世界の先にあるものは、常に死なのです。つまり、詩やポエジー論理の世界に生きるということは、常に霊界スピリチュアルの世界に身を置き、投じていくことなのですが、そこには生活を置き去りにした現代人の、一つの本音がある。想像の世界で、永遠を手に入れたいという現代人の、一つの本音がある。全ての敗北者は、生きながら死んでいる。生き続けるものは、闘って勝利を得た者だけ。私は、リングの上で闘う人々を、遠くから覗いていた、とおに死んでいた男。私がいつ、死んだか思い、考えていると、結局は、生まれた時から、私は死んでいた。私が死を自覚したその瞬間から、記憶が生まれたのだ。私は、アパートの棟の前に立つ、自分を、遠くから眺めていた。その時、私の中に演技が生まれた。想像力の世界が生まれた。風吹く街角。人は正に、彷徨える子羊。東京の立川のアパート。東京は排気ガスの臭いがひどく、私はしょっちゅう、ゲロを吐いていた子供時代を思い出す、とにかく、私は虚弱児だった。周りに合わせるのが、しんどかった。合わせる度に、人々は新たな課題を押し付け、容赦無く、踏みつけてくる。小二の頃には、もう気持ちは世捨て人だったなぁ。勉強は好きだったけど、学校は嫌いだった。寺子屋に憧れてた。学校に、全く馴染めなかった。小六の時、なにか人生で、大志を成し遂げるまで、泣くというのは違うと思った。卒業式では泣かなかった。多分、私が思うに、人生で勝ち組を選べる人々は、きっと、卒業式で泣ける人なんだと思う。私はそれを見て、ポケーと白けてしまう、生まれた時から、廃人だったのです。

投稿者

茨城県

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