芸術とは、正義をかけた戦争なのである

芸術家は作品の中にある論理を通して、常に正義の戦争をしている。中原中也の論理と萩原朔太郎の論理は違う。サリンジャーの論理と、桑田佳祐の論理は違う。マリリンマンソンの中にも、エミネムの作品の中にもそれぞれの正義をかけた戦争があるものだ。しかし、今の芸術家の作品の多くは、朝早く起きて夜早く寝たいと言う生活者としての論理なのだ。すると、当然作品の中で小難しいことは言わない。朝早く起きて夜早く寝たいからである。なにか作品の中に抑圧を抱えているのではないか? と注意深く聞くのだが、どうも本人にとっては、そうしないと受け入れられないからそうしたと言うのが言い分で、作品に抑圧をかけていることに自覚がなく、そうすることにどうも、迷いがないのだ。しかし、これを聞いて、聞き手はどう思うだろう? あっ、これは言っちゃいけないんだという抑圧を作品の中で教わることになる。つまり、作り手が作品に抑圧をかけることで、聞き手も抑圧を受け入れるのである。そこには、私欲がある。つまり、朝早く起きて夜早く寝て、適当にご飯を食べて、女の子とデートして適度に健康を保て、集団で目立つと言うような。つまり作品は、売るための口実で、作品を売ることにより得られる結果が大切なのだ。なら、他のジャンルで良いのではないか? と思うのだが、案の定、他のジャンルで成功するものだ。例えば、朝早く起きて夜寝る健康本の販売であるとか。パンを売ったり、スーパーで働いたり、そこで成功する生活者の幸せは、尊いものだ。しかし、なんでそこで幸せを得られるはずの人が、作品の中でしか論理的正義を綴ることの出来ない人の世界に入る必要があるのだろう。詩人は肉体性が希薄な世界に生きる人の方が合うし、ミュージシャンは肉体性が発揮出来るジャンルだと思う。人々が健康のみを求める時、音楽より詩はカウンターとしての威力を発揮出来るのではないだろうか? 肉体の中に正義を見るのは、男女間の恋愛を優先する生活者の態度で、頭の中にある論理に正義を求める人にとって、なにが正しいかを端的に示すことが出来るのがポエムだと思います。

投稿者

茨城県

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