『A wandering fish』

ホテルのバスタブで
泡の中に沈んでいくシャツやパンツやら
ぐるぐる回して素足で踏みつける
ベッドから彼女が這い出してくる
「プールで潜らない?」
抑揚のないいつもの声
ゴルフで痛めたという中指をたてて
野獣のような身のこなしで
素っ裸のまま跳ね起きる
愛すべき白いお尻が左右に揺れる

水面に仰向けになって浮かぶ
アトリウムのガラス張り天井に銀色のパイプが幾重にも伸び
プールサイドには観葉植物が巨大な葉を茂らせている
フィッシュアイのような視界の中で
太平洋の真ん中に漂っている自分を夢想する

泳ぐという行為の中には「永遠」が隠されていると誰かが言っていた
揺らめく波と屈折する光
水ははるか太古の懐かしい記憶を呼び起こす
「私たちは回遊魚なの」
とは彼女の口癖
オレたちはずいぶんと「永遠」に
憧れ期待し諦め退屈したりしてきた
時折彼女は流れに身を任せ
泳ぐ群れから独り離れ
想像もつかない深いところに潜っていく
それは彼女なりの新たな「永遠」探しなのかもしれない

言葉を超えて
時間を超えて
空間を超えて
生の大気圏と死の闇との狭間の
その境界にある薄い膜のようなものを突き破って
その中に泡のように溶け込んで
海綿のようにでこぼこした 
このオレの隙間に
ある日うっかり
きみは潜り込み

オレと会う前に
きみは何を見てきた?

「んじゃ行ってくるわ」
彼女はいたずらっぽくそう言って
いつものように自分の片方の目玉を
取り出して渡す
何のためにそうするのかはわからない。
そうして軽やかな水音を残して潜っていく
オレは渡された目玉を氷漬けにして
彼女の帰りを待つ
彼女が深い水底で一体何を見ているのか
瞳の奥の黒曜石のような暗闇は
なにも映さず語ってはくれない
それでも一日中その瞳を見ながら過ごす
飽きることはない

雲間から日の光が幾筋も差しはじめた
天使の梯子というやつだ
洗濯物が乾く頃にはきっと戻ってくるだろう
興奮し紅潮した頬を膨らませて
水着を脱げ捨てベッドに潜り込みオレを誘うのだろう
片目のないウインクしたような顔で
錆びついた中指を立てて
シーツの渦にくるまって

投稿者

神奈川県

コメント

  1. あくまで水温について語る君は美しい、ビロードの詩句は嘆き色のカバーをはずす、誰も永遠を見ない、それだから耳の奥にひそむこの水滴はあなたのものだ。川端康成の『片腕』、そして現在。

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