アザミ

ノイバラが行く手をはばんでいる
多くの兵士の疲れと泥の顔を春のぬかるみは
明るく照らし出し、沃野のほうから、招くのである
君たちはあたたかく心臓の銃口から指を抜く
君たちはぬかるんだ生殖器からキャラメルを
シャワーの音がする平原のチャンネルを
神学のぬるぬると顔を流れて行く
そして予告された貴婦人たちの繻子の扇子が燃える
愛のある間に、そのレースの手にくちづけて死ぬのか
もりあがる土と草と血の色と
最南端のキリギスからの断崖からの眩暈するくちづけを
進軍するのはわたしたちではない、いつも
限られた視界の中に煮詰めたトマトの缶詰
凍りつく革靴の重たさはシャベルのように笑う
友よ、限りない鉄道の幻影が処刑台となる
実際には、春のアザミのふみつけられた精神となる
無線機が敵のミサイルの距離だけを伝えて来るから
塹壕の中に沈み込み、海辺の休暇を想像するのだ
春のなぎさのやわらかな陽光の人
その髪は泥にまみれてかすかな笑みは真珠色である
町のあらゆる場所にくちづけを
煉瓦も死体も動物園も、愛してる
春の薔薇にあふれた園庭のシンフォニー
血をふきだすバイオリンも
血をふきあげるコントラバスも
血をあふれだすフルートも
血にまみれた指揮者も
そして春のアザミの
なにものでもない。

投稿者

岡山県

コメント

  1. 坂本さんの詩を読むと戦場のイメージが浮かぶことが多いです。戦争と言えば近頃ではどうしてもウクライナが浮かびます。戦場の兵士たちが、故郷を思い、恋人を思い、セックスしたりシャワーを浴びたり海辺の休暇を楽しんだりしたことを思います。その思いの中にサブリミナルのように殺戮のワードが入り込みます。ノイバラやアザミはその棘ゆえに戦場の残酷さの象徴なのでしょうか。

  2. 父が戦争に行った話をしていましたので、無縁の人間とは言えないわけです。しかし本当の恐怖については語らなかった。それは死体のころがった世界である。人間がとても人間ではいられない世界であったようです。わたしにはそうした世界を現在の状況から確認する責務があるのかも知れない。ですから戦争はわたし自身のひとつの現在です。そのような今の想像です。

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