歩く人 ― 小岩井農場変奏

歩く人 ― 小岩井農場変奏

緩やかな斜面になっているはたけの上に雨が降っていた。
雨は土の上を流れている、と思うそのイメージが今まさに見えている画像に被る/すなわち、はたけの土の表面を微細な水が顕微鏡的な小川をなして流れ、
その結果、【はたけが その透き通る粒に 洗われている】

そのふもとに白い笠の農夫が立っている。
あれは案山子だ。
しかしそれは歩き出す(まるで行きつかれた旅人のように/【ように】なのだから、そのものでは絶対にない)。
案山子なのだろうか?
歩き出すぐらいだから、汽車の時間を訊いてみたら、答えるのではないか?

語り手がいる気配がする。
その語り手のいるところは、はたけの下の湿地だ。雨を避けて歩くうちに、いつの間にか迷い込んでしまったのだ。
しかしこのあたりまで戻れたから、大丈夫だ。と、懐かしい誰かが考えている。それは語り手なのか?いや、私の父かも知れないし、他界した母かも知れない。誰かが思考する。駅にも1時間かそこらで行ける場所だろう。と。

モウセンゴケ(食虫植物)も生えているような、林の外れの人の踏み入らない場所に、まだ語り手はいるようなのだが。

モウセンゴケといえば、そのうす赤い毛も縮れて毒々しい。そういえば、それ(モウセンゴケ)は西洋のどこかの沼地にも生えていて、ナポレオンの兵隊の馬たちの何万という群れが、それ(モウセンゴケ)を三、四十センチも泥に踏み込んだりもしたその草であるのだ(と、ある人が今、その馬を見ているかのように空想している)。
いや、その人の目は雲が白いことを見ている。
案山子はあそこにいる。あそこに行こう。
いや、あれは案山子なのだろうか。人にしか見えない。
語り手は疲れた足で、また歩き出す。

トパーズ色の空から、鳥二羽がこちらへ飛んでくる、と語り手の目は見ているが、飛んでくる女の子2人をその人は想像してる。想像なのか?いや、それは女の子2人だ。
いや、そうではなく、女の子のような鳥だ。しかし、そのうち一羽は、時の先で他界した、語り手の妹だよ、と懐かしい誰かが考える。
語り手は今この広い農場にいる現在の先の未来、妹の死のさらに時の先で、妹が林に行きたいと願って死んだことを詩に書き、そう願う妹の願いを想いもせずにこの農場を歩いて、他のことを考えていた自分を嘆くのだ。
語り手が時間を遡ってこの農場に明滅し、思考する。
いや、思考するのはこの詩が書かれた百年後の私なのか。

その妹が、あの鳥だ。
妹よ。
良かったね。
ごらん、トパーズ色の空と透き通った雨、そして美しい農園を。

女の子たちはシベリア風の赤い布をかぶり、すてきに急いでやってくる。と、語り手が書き記す。
彼女には、ここでやる仕事があるのだ。
妹よ、君はあんなにも来たがった林へと飛んでくる。
(ミス・ロビン、と君たちを呼ぼう)
と、懐かしい誰かが、考える。

(宮沢賢治/「小岩井農場」パート七の解釈による変奏)

投稿者

東京都

コメント

  1. 蛾兆ボルカさん!お久しぶりです。ボルカさんのサイトと相互リンクさせて頂いたのは2004年なのでもう19年も前なのですね。タイムフライズ驚きです。実際最近ボルカさんの詩を再読してボルカさんのサイトにも訪れて、またボルカさんの詩を読みたいなと思っていたところです。この詩とてもいい。多層的にメタでしびれます。こういう詩が私たちの疲れた脳をスッキリさせてくれるのです。

  2. おお!
    たかぼさん、お久しぶりです!
    見つけてくれて、ありがとうございます

    あの頃の僕は理系の試験研究機関で働きながら、文学的な思考も続けることが、自分を保つ事の一つでした。
    あれからいろんな事がありまして、でも詩作はつかず離れず、自分なりに続けております。あんまり上達せず、作風もあんまり変わってませんが。

    思い返せば、当時、交流してくださったこと、本当にありがたいです。励みになりました。

    またよろしくお願いしますね。
    たかぼさんの作品も、ゆっくり拝読させて頂きます。

  3. 感覚にビシビシと訴えかけてきますね。
    思考のめいろのようなものが心地よく混ざり合って、宝石のように、多彩な輝きを放っているようです。
    「その妹が、あの鳥だ」
    妹への想いが濃かった賢治の果てのない悲しみがようやく終結したかのようでした。

  4. @ザイチ さん
    ありがとうございます。
    光栄です。

    宮沢賢治の詩集「春と修羅」には製作年と思われる日付が、収められた詩につけられらているのですが、「小岩井農場」に添えられた日付は、妹の死の瞬間を留めた「永訣の朝」の前後の作品より、かなり前(たしか何年も前)なのです。
    解釈によるとは思いますが、私には「小岩井農場」には、妹の他界したあとの思いが記されてしまっているような気がして、この農場で彼の悲しみが飛び立って行くような感慨がありました。

    ザイチさんの、この小品へのありがたいご感想に、私も作者ながら共感します。
    賢治の百年の慟哭は、そのいくらかでも、「小岩井農場」から小鳥のように飛び去るのだ、と思いたいです。

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