詩のようなもの

 詩は書き記された詩そのものにあるのではなく、詩から醸し出された情感の中にあるのです。詩は書き記された詩単独で存在してはいません。それを読んだ人の感覚の中にあるのです。あたかも香水が香水という水そのものではなく、そこから醸し出された香りの中に存在するように。嗅覚のない人にとっては香水はただの飲めない水でしかないのです。

 例えば美しい風景があったとします。私はその風景の中に詩のようなものがあると思いたい。その「詩のようなもの」を言葉であらわしたもの、それが詩です。だから私は思うのです。一般に詩と呼ばれているものはすべて「詩のようなもの」だと。

 だから詩は例えば建築のようなものからも発生します。建築という構造物そのものにあるのではなく、構造物を見た人の感覚の中に醸し出されるものの中に。しかし建築と詩との違いは、建築は詩を醸し出さなくても、建築という存在そのものによって役に立つという点にあります。言うまでもなくむしろそれが建築本来の役目なのですが。

 その点、コンテンポラリー・ポエムはさながらコンテンポラリー・アートに似ています。現代美術は、見る目のない人にとっては意味のないゴミと同様です。詩も、そこから何らかの情感を感じ取ることのできない人にとっては、何の役にも立たない「ただのガラクタ」にすぎないのです。その存在だけでは何も役に立たない、それが現代美術や詩と、建築や工芸品との違いです。

 20世紀現代美術の巨匠マルセル・デュシャンは、捨てられたガラクタの小便器に、架空の名前をサインして更に「泉」という題をつけて展覧会に出品しました。美術界に賛否両論を巻き起こしたこの作品は、デュシャンの代表作の一つとしてつとに有名です。デュシャンの提唱した「レディメイド」は、このように日用品に署名をしてそれを芸術作品に変貌させる手法のことですが、こういった説明だけでは充分ではありません。「見る人の存在」によって単なるガラクタを芸術作品に昇華するということなのです。

 では小説はどうでしょうか。小説は言葉が理解できる人ならば、醸し出される匂いを感じ取るような嗅覚を備えていなくても、話の筋を追うだけで楽しめるように作られています。特殊なものを除けば映画などの映像作品もそうでしょう。そう考えると詩はなぜ短く小説は長いのかということが説明できるような気がします。印象を凝縮するために一般に詩は短くできているのです(言うまでもなく俳句は最も短い定型詩です)。

 もちろん凝縮された印象が散漫にならずその緊張を維持できるなら長い詩でもかまいません。しかし長編小説のように長い詩は叙事詩以外には考えにくいです。そして叙事詩は古代の歴史を語り伝えるためのいわば歴史の記録であり、現代の詩とは別のものです。

 小説と詩の両者の境界が曖昧になるのは、やはり短い小説と長い散文詩の場合です。そういった境界線上にある作品に触れることは文芸の本質を考える良い切っ掛けとなるでしょう。

 詩は作者のものではなく読者のものなのです(もちろん作者は同時に最も熱心な読者です)。詩は書かれただけではまだ完成していません。読まれるという行為があって初めて完成されるのです。だから詩は、読まれるたびに何度も新しく発生していくのです。

投稿者

愛知県

コメント

  1. 詩はいいよね、て思います。

  2. 「詩のようなもの」ということばを、ぼくはどちらかというと否定的に使っているので、けっこう意外でした(たかぼさんの意図しておられるのとは別のニュアンスで使っています)。
    詩について深く考えたい、語り合いたい、という気持ちがある反面、詩について(詩とは何か、詩はどうあるべきかなどなど)考えれば考えるほど詩というものから遠ざかってしまう気がして、ここ数年は「詩について語ることこそが、詩からもっとも遠い行為だ」なんて嘯いたりしていますが笑、ホントはまあ、考えたいし、考えてるし、語りたかったりもしますけどね。

  3. @花巻まりか
    さん。良いですよね。だからこの日本WEB詩人会も…

  4. @大覚アキラ
    さん。なるほど「詩のようなもの」という言葉は否定的な意味にも使えますね。そしてまた詩について考えることこそ詩から遠い行為であるというのも達見だと思いました。

  5. 文を幾度か読んだ。

    読後に残った感情というか鑑賞というか干渉というか、短く書いてみると
    日本語は昔から今もどうしても自然に五七調のリズムになるので日本語の
    なかで生まれ育った人たちはふつうに生きていたら死ぬまで五七調の調べ
    に包まれた幻想のなかにいるんだろう。よく言えば古代の人たちは恐怖(
    大自然の)から自分たちを守るために時間を刻んだリズムによって聖域を
    作って妖怪など侵攻を防いできたのだろう。日本の詩は必然的に作られた
    のだと考えてます(ここまでは他所でも書いている持論)。

    その上で、たかぼさんの文を読むと、出だしは千の風に乗ってうたうのか
    と期待を膨らませて読み進めると主題が置き換わっていくようなトリック
    の繰り返しのなかで詩のようなものは(たぶん意識的に)変化していって
    最後は人と人の関係性に落とし込もうとしていて、やはりなんだかんだと
    言って、これがたかぼさんの譲れないところ、手綱を引っ張る最後の力
    すなわち、詩そのものなんだろうなとたかぼさんの人間愛を感じました。

  6. @足立らどみ
    さん。足立さんに読んで頂き、素敵な評論まで書いて頂けたことで、この作品も詩になることができました。ありがとうございます。

  7. 繰り返し悶えることがあって、誰にも見せない、自分だけの想い(詩)でいいじゃないか、と思うこともあって。けれどやはりここに載せてるものもあって(や、実は載せてないものもちらほら(しかし未完成の感も否めない))。
    「情感」になぜか抵抗があって、それは自身の学のなさに由来があるのだろうと(という自信のなさという自意識)。
    そしてこれらは前置きで、この詩から前向きな気持ちをもらえました。

  8. @ぺけねこ
    さん。そうですね。他人に読まれたくない自分だけの詩もありますね。その時は、ご自分こそが唯一のそして最高の読者であるのですね。

  9. 嗚呼、たかぼさんらしい(?)アプローチにグッと来ます。趣向は異なれど勝手ながら呼応するものを感じ、ちょうど1年前くらいに投稿した拙作『連投詩(廃棄済)』や『美術館』を思い出しておりました。私はあらゆるもののジャンルを超えて迫り来る何かを常に信じていますが、それが「詩のようなもの」であったのだなと言語化されて腑に落ちました。

  10. @あぶくも
    さん。「美術館」読み返させていただきました。あらためて、美術館の絵からだけでなく、それを見ている人からも「詩のようなもの」を感じ取られているようで、楽しそうです。

  11. 「詩情」とか「詩的」というものは必ずしも作者が意図しなくても表われてくるものだし、むしろそれを受け手が自分の内面で表出させる微妙なものなのかもしれませんね。

  12. @babel-k
    さん。確かにそう思います。コメントありがとうございました。

  13. 詩は、断片のようなものだと勝手に解釈しています。断片を、断片として、効果的に表現できる。たしかに、掌編小説と長い散文詩の境界は、惑うところでありますね。…そして、行分け詩と散文詩の境界も。

  14. @長谷川 忍
    さん。断片、つまりこの世界の部分ということですね。どこを切り取るか、どのように切り取るかが作者によって全く異なるものになる。そうかもしれません。
    今月号の「詩と思想」長谷川忍さんの巻頭エッセイも楽しく拝読しました。

  15. わお。
    自分もこの詩の中の人のように作者とセットで読む(嗅ぐ)読者なので、覗かれたような気持ちになりました。
    そして、たかぼさんのインテリジェンスが気持ち良いです。

  16. @たちばなまこと
    さん。たちばなまことさんの詩からはいつも女性が醸し出されて心地よいです。

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