キリストを仲良しの群れが理解することは永遠に不可能である

私はキリストは、ケチな商人に自分たちの都合のために利用されることを決して厭わなかったと思う。
ユダに、政治目的に利用出来ないことで憎まれ、裏切られても、決して抵抗しなかったキリスト。
愛で溢れ、優しさと情で溢れた彼。
決して他人にミカエリを求めず、要求もせず、押しつけず生涯に沢山の名言を残した。
「右の頬を叩かれたら、左の頬も差し出しなさい」
「汝隣人を愛せよ」
決して押し付けることなく、こうするといいと意見主張し、そうしなくても、それは他人の自由だと選択権の自由を与える。

人生なんだっていいなんていうことはない。是か否か、どちらかだ。
仲良しになりたいから近寄るなどというのは、動物的願望成就のために、他人を利用するようなものだ。
キリストが胸に抱いた他人を理解したいという思いとは全く真逆のものだ。
仲良しに他人を理解できるわけがない。
キリストは無償の愛を説いたが、私は無償の批判を、ネットで展開したことが、何度かある。
批判と悪口の違いがわからないのが、仲良しの悲しさである。
批判には根拠があり裏付けがある。書くことに骨が折れ、普段から人を理解したいというキリスト的な愛がなければ出来ないことなのである。
キリストの信者が、私に近寄ってきたことがある。
何度か理論的反発を表に出したが、誹謗中傷だと言われた。
彼女でさえもキリストは許し、愛すだろう。私はキリストとなら、仲良しになりたい。

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