愛の確認行為に、EYEほど、確かなものはありません。
人間が互いに目を見つめ合い、搾取しあうでもなく、欲望を漁りあうでもなく
ただ純粋に心を通わせることが出来た時、本物の愛を確認出来ます。
私は視覚的なものの多くを不確かなものと断定しますが、私を産んでくれた世界で最も信用するに値するものがあるとしたら、目だと思う。
視線を浴びて嫌がらない。どんな人からも愛されれば嬉しいものだと思える人間。
それは私が愛される資格。愛されるに値する人間だということの証明でもある。
多くの男女は恋を過大評価している。
私が人生で得た経験から言えば、恋の多くは偶発性を頼りにする儚く、惨めで悲しいものでした。
愛は向こうからやってきません。
愛は精神的摩擦から自ら作り出すものなのです。
家庭内の不和。そこから本物の愛が生まれます。
お道化やピエロ。
精神的摩擦の消えた世界は健全者の彼岸です。
私がその人生をもし選ぶとしたら、歌手でもなく芸術家でもなく音楽家でもない人生ですが、それは老後の楽しみに取っておきたいものです。
愛は見つめ合いのような、瞬間的な世界にしかありません。
しかし、永続的に瞬間的な愛の繰り返しを選ぶことは出来ます。お互いのプライドが邪魔した時、それは成立しなくなります。
愛は現実的に不可避を選ぶ妥協的選択。つまり愛は科学であり、数学的かつ機械的な合理性を伴ったものであり、そこにあるロマンや幻想は、最も深く、最も崇高でありながら、向こうからやってくることを期待するものではない。
恋。それはポップミュージックが売りにする安物買いの銭失いであり、大偽善。理不尽。弱肉強食。
スーツとネクタイを羽織って街中を立派に歩きたければ、それを引き受ける必要がある。そういうものです。フェティシズム。それを完全に否定することが良い結果を生むとは思えませんから、恋もまた人生に必要なものなのです。恋はフェティシズム。本物の変態。実はそれが恋なのです。

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