有形の不在


降るのかしら。

先のことなどわからないから
ただ ありのままを見つめる

内側で降る
血の流れが
どうしようもなく
わたしを形作り
廻る

こんなにも
形ある
わたしはまだまだ崩れそうになくて
眩暈の熱に接続された
冷めてゆく
日陰の放射していく憂鬱に
焦れてし まう

ふと
庭に埋まっている
猫の姿を思い出した
幾千夜の
夏を過ぎたのか
その上に咲いていた花
が薫る

訳 も無く涙するのを問い詰めたりしないで
 と
丸い果実にくちづけする
お腹が鳴った
在るのよ(。)


ぽっと降って 来た

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コメント

  1. ※ (本文中のふりがな)眩暈(めまい)、幾千夜(いくちよ)

  2. 漠然とした生、その先への不安。肉体の変化。
    文字と文字のあいだが日々の中でふと立ち止まって思いに耽るかのような風情を感じました。全体は雨のしずくが流れるふうにも。
    死ははっきりと視認できるけれど生はなかなかこれと示すことが出来ない、出来ないから模索(詩作かな)するんでしょうか。

  3. 王殺しさんへ 王殺しさんには分かるのでしょうね。この詩の(作者の)生きようとする葛藤が。

    この詩を語るには、まず一から話しますね。私は私の友人にぽえ会に誘われて、この間からぽえ会に入会しました。
    ぽえ会に参加している私のこの友人がぽえ会の主宰者さんと友人同士みたいなのですが、私のこの友人に私が「ぽえ会の規定では、未発表作品でないと参加できないとあるが、それだと私は参加はできそうにない」と言いました。そうしたら私の友人が主宰者さんに聞いてくれたところ「既出作品でも参加していいことにします」と主宰者さんに言われたそうです。で、ぽえ会で私が今まで発表した作品は全て既出作品です。
    どなたさまも言わないようなので、私がここで以上のことを言いました。

    話を少しこの詩に戻しますが、この「有形の不在」も既出作品です。それも16年前のもので、この詩は一度詩誌『詩学 2005年6月号』で一時選考通過、掲載作品のものを改稿したものです。何が言いたいのかと言えば、この詩を書いたのは昔のこと、ということ。まぁ、ぽえ会に出す以上は、何年も前であろうとなかろうと、1編の詩でありますね。ちなみにこの「有形の不在」以前に私がここぽえ会で発表した作品達の大体が近年のものです。

    うむ。で、話をこの詩の本筋に戻しますね。
    王殺しさんのおっしゃる通りで、そうですねえ。
    この「有形の不在」に出てくる「わたし」に限定して厳密に言えば、「わたし」は作者である私とは同一の存在ではありません。しかし、「わたし」は私の分身みたいなもの。
    大体は、王殺しさんがこの詩からイメージなどしてくれた通りです。すてきに読んでくれてありがたい。それで、私のモットーは、いつのころからか「詩人の魂(いのち)は筆(書くこと)」となっています。詩、もっと言えば詩作は私にとって生です。まあ、何度も言うようですが、むつかしいことは私には分かりません。しかし、いのちは原初から欠けているから、私は死を見つめながらも生きようとする、いのちを求めて生きるのだと思います。
    王殺しさんの思いやりなどのある読みとご感想にいつもこころが温かくなります。ありがとうございます。
    絶対とは言えませんけど、いろいろとありますが、私が言葉を書ける以上、私はずっと詩を書いていくことでしょう。
    (長くなりました。ここまで読んでくれて、ありがとうさま。拝礼)

  4. 断片的な書き方ですね。表現の断片を重ねていく、そんな印象を持ちました。作品全体として、ひとつの世界をイメージさせますが、それでいて、各連が、独立した小さな世界を保っている…。根底にあるのは、王殺しさんも書かれていましたが、漠然とした生、その先への不安、かもしれません。

  5. ちなみに、この詩で書いた「猫」が「庭に埋まっている」話は実際のことです。昔、猫と私(この詩の作者)は一緒に暮らしていて、その猫が亡くなった後にその猫を庭に埋葬したのです。

  6. 詳しい説明ありがとうございます。
    なるほど腑に落ちるところもありました。

    とはいえ、僕のモットーは読まれた詩は現在過去未来を問わず読まれるべきものと思い、読み、書きます。たとえ大正時代に書かれたものでも今の感情に合わせて読みます。
    なぜなら詩の読まれる意味とは、時代や時間を越えた人間の普遍的なものを授受されることだと思うからです。またそれが読者にどうとられても、こしごえさんのおっしゃる「ありがとうの世界」で、なんせ詩は読んだ気分、読んだ年齢、それと経験でイメージや感動が変化するでしょうから。

    だから詩にでてくる「私」や「僕」、「彼」や「彼女」が実在の誰であるか、それが作者であるかはほぼ意識しなくていいと思っています。とくにネット詩の世界では、作者を知っていることは稀なのでそこにあまり意味を感じないのです。伝記を知る由もないので。
    まぁSNSと詩の融合ということでならば相手を知らねばならないのかもしれませんが。

    なんにしろ読み手を想定しての詩作であるならば、読んでくれてありがとうと共に読ませてくれてありがとうの世界でなければ読む方はなにをしてるんだかわかりません。
    読む方のありがとうにもいろいろあるでしょう。美しいイメージをありがとう、考えさせられたありがとう、気付きをありがとう、勇気をありがとう、この時間をありがとう、もっともっとあるだろうか。僕もコメントを思いつくものにありがとうと思っています。
    そして読み手にボランティアをさせてはいけないと僕も心しているのですが、なかなかむつかしい。

    もちろん詩には書き手の思想や感情、体験をいかに伝えられるか、作者の思う詩として成就できたかが大事です。そうでなくては詩など書かないでしょう。
    でも読まれてしまえば、どう読まれようと読者のものです。だから読まれる前にどう書くか、それが詩作の葛藤であり喜びであると思っています。

    こしごえさんの詩に向かうお考えにとても共感します。僕も同じようにずっと詩を書いていくと思います。
    思わずだらだらと長く書いてしまいました。甘えました。誤字脱字がありませんように・・

  7. 長谷川さんへ うむ、この詩を書いた当時の16年前のことはハッキリとは覚えていませんが。あの頃私は、今のように数ヶ月から1年とか長くて2年前後掛けて詩を書くことはなくて、長くても1ヶ月位で詩を書いていたと思います。あの頃は『詩学』に投稿をしていたからだと思います。そういう詩作の背景なども、あの頃書いた詩の作風に少しは関係しているのだろうと思います。
    うむ、当時言われたことを今の今思い出しましたが、あの頃書いていた他の詩も、バッサリバッサリというように各連をわけるように書いていたかなあと。
    でも、長谷川さんがそう読んでくれて、そう言ってくださいまして、ありがたいです。全体が一つのイメージで、各連が独立しているというの。
    うむ、あの頃と今を比べれば、あの頃は今よりもずっと「もがいて」生きようとしていました。ふふ、それがきっと作品にも表れているのでしょうね。王殺しさんと長谷川さんの分析している通りなんだと思います。
    長谷川さん、この詩と作者に寄り添ったご感想をどうもありがとうございます!

  8. 王殺しさんへ そうですねぇ、その通りですね。
    王殺しさんのおっしゃる「とはいえ、僕のモットーは読まれた詩は現在過去未来を問わず読まれるべきものと思い、読み、書きます」「なぜなら詩の読まれる意味とは、時代や時間を越えた人間の普遍的なものを授受されることだと思うからです」ということなどを聞いて、とても今共感します。
    そして、王殺しさんのおっしゃる通りで、読者はさまざまにさまざまですね。たとえ、それが「同じ読者で同一人物」であろうとも、その時その人のこころなどの状態によっても、同じ詩から感じたり思ったりすることが変化していくということも、王殺しさんの言う通りですね。

    また、「だから詩にでてくる「私」や「僕」、「彼」や「彼女」が実在の誰であるか、それが作者であるかはほぼ意識しなくていいと思っています。」ということなどにも同感です。

    読者と作者のお互いの ありがとうの思い、ということもそうですねえ。
    王殺しさんの言う「ありがとう」の思いが、読者と作者のお互いにとって自然ににじみ出るような出会いがあることを私も願います。

    あと、王殺しさんのおっしゃる
    「もちろん詩には書き手の思想や感情、体験をいかに伝えられるか、作者の思う詩として成就できたかが大事です。そうでなくては詩など書かないでしょう。
    でも読まれてしまえば、どう読まれようと読者のものです。だから読まれる前にどう書くか、それが詩作の葛藤であり喜びであると思っています。」というのは、王殺しさんが言うそのままその通りですね。
    書く以上は、書くその時に作者が納得したベストのものを書かないとならない、のだと思います。そして、詩、それ自体は独立した存在(読み物)でなくてはならないと思いますが、読者あっての詩だと思います。

    王殺しさんとのやりとりのなかで、王殺しさんの読者や詩に対するあふれる思いを知ることができて貴重に思います!!更に言えば、私の詩に対する思いにとても共感してくれまして、とてもうれしくありがたいです。
    王殺しさんがさまざまに言ってくれて うれしい。これからも、お互いそれぞれに 詩を書いていきましょう。
    ありがとうございます。拝礼

  9. 有形の不在というと、どこか哲学的、物理学的な、そう言った切り口も好きなのですが、血の流れ〜からの循環器系の連や、眩暈の熱に接続〜からのエントロピー的な連なりも、意識の流れと連動していて、感情の系統が肉体の機能や世界と連動しているかのような文脈で感銘しました。(うまく伝えられているかわかりませんが)一番よかったのは、(。)です、何を伝えようかわからないですが、何か不在の形があるようでした!

  10. timoleonさんへ timoleonさんのおっしゃる通りですね。哲学的と言えば、その通りだろうと思います。また、それらをすてきに整理して言ってくれて、ありがたいです。意識の流れがさまざまな物事と連動しているというお言葉も、この詩を客観的に見ることができて、ありがたく思います。
    (。)を作者の私が言ってしまうと、なんだか野暮な気がするのでそれが何なのかは言えません。それは、読者の方(かた)お一人お一人が(。)からさまざまに感じたり思ったりしてくれることを願います。
    でも、timoleonさんは、(。)からすてきに感じてくれました。

    timoleonさんのすてきなお言葉の数々をありがとうございます!

  11. 僕も昔、飼っていたインコなどが死んでしまって庭に埋めたことあります。書き方から可愛い感じも受け。
    作品が未発表か既発表かは気にしていなかったです。詩を書いたときに日付でも添えとけばよかったと思うことはあるのですが、僕は週の曜日もわからなくなるほどの長い休みで。僕の父は本読んだ後も何年何日読了とか書いちゃうんですけどね笑

  12. りゅうさんへ うむ。この詩は(遠回しですが)死についてのことも言っているのに、りゅうさんはご自分と暮らしていたインコちゃんのお話をしてくださいまして、ありがたく ありがとうございます。

    私事ですが、私もセキセイインコとしばらく暮らしていました。最初は、ペットショップから男の子と女の子の二羽を一緒に家に連れてきました。この約一年後にこのカップルの間に三羽の子供インコちんが生まれて、お父さんとお母さんは子供を自分たちだけで育てました。インコちんの五羽の家族ができました。子供のなかに女の子が一羽いて、私の家族の友人がインコが欲しいと言うので、その女の子インコちんはその友人宅へお嫁に行きました。そのうちお母さんインコが亡くなり、次にお父さんインコが亡くなり、残った子供インコの兄弟は、それぞれ7年ほどと12年ほど生きて亡くなりました。私の家で亡くなったインコちんたちは、私の家の庭に埋葬しました。

    私と暮らしていた猫を含めたちびちゃんたち(ペットたち)は、みんなやさしい子達でかわいい、今でもちびちゃんたちの写真を見て、かわいいと思います。

    ちびちゃんたちの生前に、ちびちゃんたち ひとりひとりへ「ずっとずっとありがとうだよ♪ずっとずっと一緒だよ♪」と時々私は言い聞かせていました。(ここで言いますけど)思うだけなら自由でしょうから思うのですが、ちびちゃんたち(の魂)はきっと今でも私と一緒なんだと思っています。^^
    あぁ、つい長話をして、すみません、拝礼。
    でも、ちびちゃん生きものたちって、みんな一生懸命に生きていて、かわいいですよね♪その存在だけでも周りの家族を幸せにしますよね。うん。
    りゅうさんと暮らしていたインコちゃんも、かわいいでしょうね♪^^

    ああ、そうなのですね。うん。
    あ、私も読んだ本に最初の読了日をメモしておきます。
    りゅうさんのお父様と一緒ですね。^^;

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