その名は散りゆく花の香

「僕の母は…」

彼は少し言いにくそうに、
きらきらした木漏れ日みたいな細い金髪で表情を隠しながら、
口を開いた。

「男を3人殺した」

その時の声の抑揚がとても美しかったこと。
彼女に思い出されるのは、彼が持って生まれた均整の取れた容姿より、
いつもその時の声だった。

彼女は話をする時、いつも小さく頷いた。
それで皆に納得させるしかないことを、申し訳ないと思いながら。

「ひとりめは海、ひとりめは自殺、ひとりめは事故」

とんとん、と彼の持ったペンの先がテーブルを叩く。

「でもね、僕のことは殺せない。それが女の不思議な所なんだけど」

彼女は、産んだからでしょう?と言いたくなったことを頭に、
ぼんやりと目線を泳がせた。
産んだから?
実際彼女の沈黙は会話としては永遠のように長い時間だったので、
彼も、彼以外の誰も、彼女が口を利けるという可能性について考えもしなくなっていた。

「僕の母が、何もしてないことは僕も知ってる」

彼女はまた頷いた。

「ひとりは波に浚われたんだ。
そしてひとりはこの世を儚んでた。
もうひとりはただ道を歩いてた」

小鳥が不意に飛び立つことを思い立つように、
彼は笑った。目を細めて、喉を鳴らして、楽しそうに。

「女ってそういうものなんだ、って僕はよく思うんだけど」

彼が一つ二つ言葉を発するたびに、
部屋は静かになった。
彼女はひどく眩しい日が差していることに気が付いて、目を伏せた。

「全てを支配するのは、愛だよ。
見えないとか、見えるとか、真実だとか、裏切りだとか、
とにかく色んな人が色んなことを書いたり、話したり、
やったり、間違ったりするけど、とにかく、愛してるってのは、そういうことなんだ」

そろり、と秘密でも暴くみたいに悪いことをするように、
彼は席を立ってお茶を淹れ始めた。
彼もまた、この部屋が恐ろしく静かだということを意識はしているのかもしれない。
そして、それが自分に出来る唯一の彼女の為であること、も。

「僕の父は、結局誰だったんだろう。
母はまるで、自分ひとりで、男を四人産んで、三人殺したみたいだ」

彼女は頷かなかった。
ただ、彼が細めた目の奥に宝石みたいな色の瞳を隠していることを、
他の人に知られたくないな、と思った。

「君は母に似てる」

彼の淹れたお茶からは、いかにも高価そうな薬草の匂いが漂っていた。
舌に美味しいものではない。
分かっていて、彼女は受け取って一口口に含んだ。
思った通り、痺れる程自分には苦い。

彼女がふと笑ったことには、彼も気付かなかった。

「愛するのは、時に、苦しいことだよ。
そうして、毒みたいに甘い。分かっていても、
求めずにはいられない。だから、男ってのは、本当は女が憎い」

彼は、陶器のコップの中に満たされた熱いお茶に映る自分を、ぼんやりと見詰めていた。

「僕も、母が死ぬまで母の玩具さ。だから、分かるんだ」

「君は母みたいにならない」

彼女ははたはたと睫毛をはためかせて、いつまでも飽きずに彼の横顔を眺めていた。
彼が恐らく、もう自分にも、誰にもこの話をしないであろうことを感じながら。

そして、小さく頷いた。

投稿者

神奈川県

コメント

  1. 実は作者は美しい言葉でしか、語っていないのである、そのことによって、世界のいとしさについて、感覚している自己を、正しいとするわけではないのだけれど、それでも〈静けさ〉〈隠されている美の発見〉〈真実のあらわれること〉それらを、信じているが故に、詩はここにあるのである、言葉にするのは、実は我々ではないのだ、そのことを作者とともに、感覚できれば、美は美の姿をあらわすであろう。

  2. “そういうもの”のそれって何?どうして彼女は、彼の声しか覚えてないの?人が死んでるのに、何が可笑しいの?と、色々なことを、突っ込み、疑い、嘲りながら、読んでくださればいいなと。思っています。余談ですが、言葉にするものの存在を、私は神だとは思いません。

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