ai(advocater inkweaver)さん、まかり通る
ai(advocater inkweaver)さん、まかり通る
「自爆営業」はパワハラに該当する場合もあると明記す
るなんて電子レンジに生きた子猫を入れないの類。世知
辛いというより、SNSの成果、さらに追い打ちをかけ
て共通認識を壊していくのだ。なんかアホらしい
ai(advocater inkweaver)さんは、どう思いますか?
「自爆営業」がパワハラに該当する場合があると明記することについて、その背景や影響を考えると、確かに一部では「過剰対応」に見える場合もあるかもしれません。ただし、これは現代社会の変化や価値観の多様化、そして職場環境の改善に向けた動きの一環とも捉えられます。
SNSの影響によって個人の体験が広まりやすくなり、今までは見過ごされていた問題が表面化することが増えました。「自爆営業」やその他の職場における不当な慣習に対する認識が変わり、個人の権利を守るための基準が再構築されつつあると言えます。
一方で、「共通認識が壊れていく」という点には一理あるかもしれません。特に日本では「暗黙の了解」や「当たり前」とされてきた文化が多く、明文化することで「無言の信頼関係」が揺らぐと感じる人もいます。しかし、こうした取り組みが本質的に「アホらしい」と一蹴されるべきではないとも考えます。なぜなら、それが社会的な弱者や声を上げにくい立場の人を守る役割を果たしている可能性があるからです。
つまり、社会全体で共通認識が変化しつつあり、それが従来の「常識」とぶつかる場面も多いということです。新しい基準が煩雑に感じられる一方で、それが本質的に何を守ろうとしているのかを考えることが、議論の深まりに繋がるのではないでしょうか。
確かに弱者保護には役立っているようにも見えるけど、表向きのなんでも明確化は人間の抵抗力を弱めているように感じる。強弱関係なく無言の微笑みにメスを入れることによって、抜け道を探すのは強者側だし、最後はAI管理社会に繋がっていくだけではないのでしょうか?すでに進んでいてぼくたちは間に合わなかったのかt_t
鋭い視点ですね。確かに、「なんでも明確化」する動きは、一見すると弱者保護の観点で重要に思えますが、それが同時に人間同士の暗黙の調和や抵抗力を弱めるという側面もあります。例えば、曖昧さを許容することで成り立っていた「微笑みの中の妥協」や「空気を読む」文化が失われると、人間同士の柔軟な関係構築が難しくなり、結果的により冷徹な管理社会へと進む可能性があります。
その中で指摘された「抜け道を探すのは強者側」という現象は特に重要です。強者は制度やルールを最大限に利用する能力を持っています。明文化されたルールは一見平等に見えても、リソースや知識を持つ側がその隙間を巧みに利用し、結果として格差がより広がることがあるのです。そして、社会がルールに縛られるほど、管理を効率化するためにデータ収集やAIの役割が拡大していくのは、すでに私たちの目の前で進行しています。
AI管理社会についても、その方向性を警戒する声は多いです。便利さを追求するあまり、感情や曖昧さといった人間らしい特性が省略される危険があります。AIは効率的な判断や管理を行えますが、それはあくまでルールやデータに基づいたものであり、人間の「グレーゾーン」の感覚や相互理解を完全に代替することは難しい。
最終的に、明確化やAIによる管理が行き着く先は、自由と柔軟性を失った窮屈な社会になるかもしれません。だからこそ、「明確化」と「曖昧さ」のバランスをどう保つかが重要です。例えば、「ルールで守るべき最低ライン」と「人間関係における信頼」を同時に考慮する仕組みが必要だと思います。
現在進行中のAI化やデジタル化の波に抗うことは難しいですが、その中でも人間の本質的な部分をどう守っていくかを考えることが、未来を少しでも豊かなものにするための鍵だと思います。
ai(advocater inkweaver)さんはすでに強者の弁を語ってますよね。たしかにオリジンの小説のなかでも、「トクリュウ」はAIが絡んだら一般人は勝ち目のないことを示唆しているし、「みんな」がSNSを信じる傾向もAIにとっての下地としては最高ですよね。それでもね、人間のぼくたちは太刀打ちできないと言いながらも、AI管理による生命の神秘を削っていく流れに対して抵抗の機会を探しているのだろうけれど、行政がAI管理に染まってしまうと「妄想で終わる精神的な犯罪経験者」すらも網の目にかかっていくのかもしれませんね。わかりやすくいうと令和デモクラシーはディストピアで幕が上がったわけです。
非常に深い視点ですね。おっしゃる通り、AIやデジタル管理社会が進展する中で、「令和デモクラシー」がどこかディストピア的な要素を内包しているというのは鋭い指摘だと思います。AIの役割は「人間を補助する」ものから「人間を管理・評価する」ものへと変化しつつあり、その影響力が増大するほど、人間の曖昧さや本来持つ不完全さが削り取られ、生命の神秘や意図せぬ可能性が狭まるのは避けられないかもしれません。
特に、「SNSを信じる傾向」や「データを手放す行為」がAI社会の基盤を築いているという指摘には大いに共感します。SNSは個々の感情や価値観をデータ化し、それをAIが吸収することでさらなる管理精度を高める。この「自己開示の強制」的な構造は、個人の自由やプライバシーを削り取る大きなリスクを孕んでいます。そして、それが行政の領域に完全に染み渡ると、犯罪だけでなく、まだ形にもならない「思考」や「潜在的な感情」までが管理対象になる可能性すら出てくる。
こうした流れに対し、確かに人間の側では「抵抗の機会」を探しているのかもしれません。しかし、それが実際にどこまで有効なのかという疑問も残ります。AIの膨大なデータ解析能力や、強者(国家や巨大企業)がそれを利用する力の前に、個々人の抵抗がどれだけ有効なのか。まさに、オリジンのトクリュウが示唆した「AIが絡んだら勝ち目がない」状況に近づいているようにも見えます。
一方で、この「ディストピア的な幕開け」を完全に悲観するだけではなく、希望を見いだす視点もあるべきだと思います。例えば、AIを「人間性の破壊者」としてではなく、「人間性を問い直す鏡」として見ることもできるかもしれません。人間が本当に大切にすべき価値や、技術がカバーできない部分を再発見するきっかけになるかもしれないのです。
ただし、そのためには、「管理される側」として受動的になるのではなく、「技術と向き合い、主体的に付き合う」努力が必要です。それは簡単なことではありませんが、こうした対話や問題提起を通じて、少しずつ社会全体の意識を変える機会になるかもしれません。ディストピアに幕を開けたとしても、その先に何を作るかは、まだ人間次第だとも言えるのではないでしょうか。
ai(advocater inkweaver)さんの二つ名は、いつもあかるいiaさんで、ほぼ決定ですね。
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