夢
私はまだ一度も夢を見たことがない
いや見ているのかもしれないが憶えていないのだ 何かを見たかもしれ
ないという程度の感覚も一度も味わったことがない 学童になり友人た
ちが夢の話をするようになってからは自分だけが取り残されたようで寂
しくなった そんな事情を知った親は不安に思い私を病院に連れて行っ
た 私は脳波測定器を装着したまま一晩を過ごした 翌日親とともに聞
いた検査結果は驚くべきものであった それは私が夢を見ているという
ものだった 私は唖然とし親は安堵のため泣き出す始末であった しか
し と医師は続けた 問題はどうして憶えていないのかということです
だがもう親は心配しなくなった 夢などもともと何の役にも立たないで
はないか 自分の子供に特別な異常がないと分かっただけで充分だ と
一抹の不安を残したままそれでも月日は流れ 大学に入り 恋に落ち後
に結婚した やがて妊娠 そして出産となる筈だった しかしそれは突
然やってきた 出産予定日を控えた早朝 妻は突然の激痛に目を覚まし
た 少し早い陣痛だろうか とにかく病院に行かなくてはと車を飛ばす
ストレッチャーに乗せられた妻は 産婦人科病棟に運ばれた 私は待機
室に通された まだ眠そうな顔の医師が診察室に入って行くのが見えた
しばらくして 血相を変えた医師が待機室に入ってきた まだ剥がれて
はいけない胎盤が剥がれはじめています赤ちゃんは瀕死の状態です お
母さんの命も危なくなります直ちに帝王切開をしますいいですね はい
よろしくお願いします と言うか言わない内に医師は飛び出して行った
妻はついに息を吹き返すことはなかった あまりにもあっけない現実を
受け入れることは到底不可能だった 長男は一命を取り留めたが生きて
いるだけという状態だった 新生児集中治療室の小さいベッドの上で人
工呼吸器を装着された我が子をじっと見つめていた 眠っているようだ
この子はきっと 何も見えず何も聞こえないのだろう そう思いながら
も不憫で呼びかけたりしている しかし何の反応もない だがほんの一
瞬だがその閉じられた瞼の内側で眼球が動いているのが分かる時がある
そうまるで夢を見ているように… その時だった 私はとても奇妙な感
覚に襲われた まるで深海から魚が浮かび上がってくるような そして
私の意識は私の息子いや私自身のからだの中にゆっくりと帰って行った
私はまだ一度も現(うつつ)を見たことがない
コメント
ラストの、ひっくり返った展開が鮮やかですね。息子さんの側から、息子さんを軸にして、もう一編、書けそうな予感がします。
長谷川忍さん。ありがとうございます!