顔:引用合体詩

日が昇り始める早朝、ジョギングしながら微笑みについて考えた。
・安心したときの微笑み
・不安を知られたくないときの微笑み(アンニュイ)
・好きな人を見つけたときの微笑み(のち歓喜の笑みにつながる)
・愛想笑い的微笑み
役者の世界は知らないので、これらの微笑みの違いをどこまで演じられるのかは知らないが、こういった微笑みの違いを観察者が知るには前後の情報が必要だろう、いわゆる文脈の必要性だ。写真というのは基本的には一場面のものなので、前後の文脈を読み取ることはできない。なので写真のモデルが微笑みをしているとき、その印象は観察者の気分で変わるのかもなあと考えながら走っていた。笑顔もそうだが、自分の微笑みを自分が撮ることは不可能だ。演じることはできるかもしれないが、笑顔以上に微笑みというのは難しいように思った。自分がどんなときにどんな風に微笑んでいるのかすら、普通は知らないのじゃないだろうか。
「あ、これおいしいな!」と思ったときにする微笑み。
「しょうがないやつやなあ」と仲間をゆるすときの微笑み。
▼「言葉が行為に先だつのか」ゲオルゲ/手塚富雄訳『ゲオルゲ詩集』岩波文庫
言葉が行為に先だつのか、行為が言葉に先だつのか。古代の
都市は弾唱詩人を呼び出した……
その腕と脚は力とたくましさに劣るにせよ、
その詩句は敗れた軍を奮起させ
こうして彼は久しく求められていた勝利の施与者となった。
このように運命は微笑みながら姿と質とを入れ替えるのだ、
わたしの夢は肉体となった、そして
柔和な土でかたどられ――足どりたしかな
童子をこの世に送ったのだ、高い歓びと高い奉仕をめざすかの童子を。
▼『Human なぜヒトは人間になれたのか』より抜粋 NHKスペシャル取材班 角川書店
 私たちはお互いの顔を何となく気にしている生き物なのだ。
 しかも、単純に気にしているだけではない。重要な判断材料としているようなのである。

「私はTN氏が脳の障害のため何も見えないことを知っていました。しかし私は、病室に入ったとき、挨拶のつもりでつい彼に微笑みかけました。すると、彼も私に微笑みを返したのです。私は最初、彼の脳の機能が持ち直して視力が回復したんだろうと思いました。ところが、彼はそうではないというんです」

「なぜ微笑み返したのか」と尋ねた。すると、TN氏はペニヤ医師が微笑んでいると感じたからだと答えたのだ。

「自覚がないのに反応できるのはなぜか」

「脳について、特に意識に関する分野では、私たちの理解していないことがたくさん起きている可能性があります。本人が意識もしていない、自覚もしていないにもかかわらず、脳のなかでは数々のことが起きているかもしれないのです」

「実際には見えていないんです。でもなんとなくイメージが浮かぶんです。そのイメージは、私が気に入っていたり、形が美しかったり、面白かったりするのです。その印象で、私は答えているのです」「私たちにとって、相手の表情はとても重要な情報源で、私たちが意識的に見て分析しなくても脳で処理されるということだと思います」

 本人があまり意識していないことは、かえってこのセンサーの奥深さを感じさせる。意識しなければ働かないセンサーならば、疲れているときとか、気を抜いているときには、センサーが止まってしまう危険がある。もしも無意識でも働いているとすれば、つねに働いている可能性が大だ。

 他人の表情を重要視している私たちは、何も冷静な判断材料にしているだけではない。相手と心を通じ合わせるための、「きっかけ」にもしているのだ。いわば視覚情報が、共感を働かせるためのスイッチというわけである。

「私たちには、自動的に他者に共感する能力があります。特に友人や家族のように自分の大切な人が痛みを感じているのを見るのは、本質的に不愉快なことのようです。この能力は先天的に、あるいは幼少時に発達すると私たちは考えています。そこで、人は誰に対しても自動的に共感するものなのかどうか、その点を研究したのです」

「公正な人の痛みを見たときに強く活動し、不公正で利己的な人の痛みを見たときにはまったくといってよいほど活動がありませんでした。
ㅤなぜ同じ笑顔ひとつで、分かり合えないこともあるのか。なぜ、心の反応は一つに定まらないのか――。その答えは、私たちの脳が同じような場面に遭遇しても、真逆の反応をすることさえあるからなのだ。

 画一的ではない私たちの反応。「ひとつの方向に作用するだけではないのです」(略)「人間はほかの種と比べてもっとも協力的ですが、マイナス面もあります。人間の対立はほかの動物の対立に比べ、ずっと致命的です」

「人を羨んだり、あるいは自分に劣等感を抱いたり、そねむ、ひがむ、あるいはコンプレックスを持つことが私たちにはよくあります。全部よく考えてみると、他者との比較のうえに成り立っている感情ですよね。簡単にいうと、自他の落差の認識なんですね。自分というものの置かれている状況と、他人が置かれている状況の両方を見ている。自分1人のことにしか目を向けていなければ、そういう感情は生まれないはずです」

「自他の比較のなかで、自分を位置付けるということをチンパンジーはしないんですよ。チンパンジーは、ほかの人は、どうでもいいんですよ。自分の暮らしは自分の暮らし、他者の暮らしは他者の暮らし。それはそれ、これはこれ、なんです」ㅤ

 人間は、他者の心を読むことができる。それゆえ、困っているヒトに対して、自ら手を差し伸べる志を持つことができる。しかし、同時にその同じ能力がまったく逆の方向に働き、負の感情を生み出す。こうしてみてくると、人間が共感能力を持つのがはたしてよいことなのか、それとも悪いことなのか分からなくなる。

「でも私はこう思います。相手の状況が分かる。相手の心が分かる。そのときに、さぁ、一歩前へ踏み出す志を持つのか、傍観するのか、そのことをクスクスと笑うのか、それはまさに心の持ちようの問題だと」ㅤ
 私たちは一つに定まらない心のせいで、揺れ動く存在となっているのである。

私が興味を持っている学問のひとつであるサル学には、言葉に関する問題やテーマが出てくることがよくあります。特にチンパンジーを使った実験では、彼らがどこまで言葉を理解できるのかということが調べられています。この話はかなりおもしろい。最初の実験では、人間の赤ちゃんを育てるように、チンパンジーの赤ちゃんを学者夫婦が育てます。しかし、チンパンジーの赤ちゃんを人間と同じように育てても不完全な形で四語をしゃべる程度にしかできませんでした。しかしこれはチンパンジーおよび他の猿科動物と、人間との発音器官に違いがあるためだと分かります。喉の構造の違いから、人以外の猿や哺乳動物は人のようには発音できないということが分かりました。では手話や身ぶり手振りならどうか? これはかなり上手くいき、手話を教えたチンパンジーの中でも秀でたチンパンジーでは130語を習得したと報告されます。ところが、時代を経るとともに、これには実験のやり方に問題があることが分かってきました。それまでの実験は全て、人とチンパンジーとが対面で物を教えていました。したがってテストも人と対面で出題される。するとチンパンジーはその人物を見て、その人の仕草や何を求めているのかを察知して答えを出していることが分かってきました。これまたやり直し。次は人を介さず、プラスチックのプレートを使ったり、キーボードやボタンを使ったものになり現代へと進んでいきます。最新の研究結果では、チンパンジーはリンゴというものを、一つの(数)、赤い(色)、リンゴ(名前)という複数の情報を持っているものと理解できているようです。当たり前ではありますが、これらのことは人間にも当てはまるのがおもしろい。コミュニケーションとは、基本的には会話ですので、他人と対面で行うことです。このとき我々は、会話で話している言葉と同等に、仕草や表情でも情報を伝えています。恋人と仲良くやってるのか? という質問をしたとき、相手がなんらかの返事をしなくても、顔が翳ればうまくいってないことを察知する。チンパンジーが、質問を出す人間の表情や仕草から答えを導き出していたように、会って顔を見合わせるということは、言葉だけの情報以上のことを相手に伝えています。では、そうではない場合の言葉というのは、どこまでの情報量を持つものなのか? 私は詩人なので、詩のサイトを覗いたり、そこに書かれた批評文なんかを読むことがよくあります。でも、かなり多くの人が、書き言葉での情報というのは、どれくらいの文章量を費やさないと相手に正確に伝わらないのか、ということは無視されているように感じます。基本的に詩は短文であることが多いので、言葉数は少ない。で、改めて考えてみると不思議なのですが、なぜか、短い言葉で多くの情報を含ませた表現こそが素晴らしいという認識を持つ人が多い。でもそれは本当でしょうか。

なんの判断材料も持ってないんやったら、とりあえず顔で判断するというのも一つの手なわけや。まあ、若い子らやと、ならイケメン・イケウメンが得するじゃないか! って思うやろうけどね、それなりに経験すると美男美女の基準も変わるし、美以外のところも見るようになる。

投票なんか、コンビニに肉まんを買いに行くつもりで行ったらえーねん。誰に入れるか迷うんなら、貼ってるポスター見て、自分が一番良さそうと思う顔の人に入れたらえーねん。行動せんことに、やいのやいの理屈つけるな。
▼『リルケ詩集』高安国世訳 岩波文庫
日常の中で困窮している言葉を、
人目につかぬ言葉を、私は大へん好む。
私の祝宴から私は彼らに色彩を贈る。
すると彼らは微笑み、だんだん快活になる。
▼『虚勢されない女』より抜粋 エマ・サントス/岡本澄子訳 書肆山田
 おまえが書くことを止めたら、孤独だということをおまえは知ることになる。今のところおまえは現実から離れている。とにかく、とにかく書かなければ、早く、自分を理解しないまま、言葉に酔いしれていなければならない。おまえが自分の声に耳を貸してしまったら、すべてをバカバカしく思うだろう。そうなってはダメ、語るために語る必要がある。決して何かを言うために語ってはならない。真摯であることを避け、むしろ真摯から逃げなさい。だれもおまえの言うことなんか聞かない。言葉、本当の言葉は黙っている。風とともに書いて、書いて、早く書いて。おののき、ひらめきをどんなふうにだっていい。何でもいいから書いて、見ないで、理解しないで、内部を書いて。目を閉じて書いて。
 おまえはおまえの言葉と同じく狂っている。おまえは興奮し、叫び声をあげ、紙を引っ掻く。わたしたちのシステムのなかに入るか、あるいは書くことを試みながら自殺するか、どちらかだ。別の可能性はない。
 おまえの言葉を他の人たちに読ませてはダメ、彼らは言葉だけしか見ないから。大切なもの、それは白い部分、言葉と行の間の空いているスペース、汗と微笑み。わたしたちはノートを太陽や雨にさらして、自分たちの言葉に光と水のカバーをかける。魔法の形。模様に魅了され、わたしたちは欲望や生きる欲求を読みとる。鉛筆も紙もなしに書きなさい。裸で書いて、そうでなければ書くことを止めて。

ジョギング折り返し地点にあるベンチの周りを天使たちが走っている。
私が近づくと天使たちと目があい微笑みかけられた。
天使たちは自分が見られていることに気付くとこちらに興味を示す。この興味の示し方は犬もする。
興味、近寄り、笑顔、触れ合い、
言葉がなくても。
▼「夜のパリ」ジャック・プレヴェール/大岡信訳
闇の中でひとつずつ擦る三本のマッチ
はじめのはあなたの顔をいちどに見るため
次のはあなたの眼を見るため
最後のはあなたの唇を見るために
そしてあとの暗闇はそれらすべてを想い出すため
あなたをじっと抱きしめながら。

投稿者

大阪府

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