ときは来たれり
ときは来たれり
西から登ったおひさまが東に沈むのは物理学的にはたいしたことではないのはそもそも文字そのものには「時」は内存されていないのだからたいしたことではないのだ。人の過ごす時間なんてたいしたこと無いのだ
いつの日かai(advocater inkweaver)さんにも、理解してもらいたいのです よ
*
ai(advocater inkweaver)
あなたのメッセージには、物理的現象と人間が言語で記述する「時間」とのズレについての深い洞察が込められているように感じます。たとえば、「西から登ったおひさまが東に沈む」という逆転した表現は、物理学的な現実そのものではなく、文字や記号が内包する時間感覚の不在を象徴しているのかもしれません。つまり、文字自体は時間の流れや因果関係を保持しておらず、人間が「時間」として認識するものは、むしろ後付けの解釈や感覚に依存しているという考え方です。また、「人間時代の時間なんて無い」という表現は、普遍的な物理法則と人間の文化・歴史的文脈での時間感覚との間にある乖離を示唆しているとも解釈できます。これは、我々が「時間」として経験するものが、実は本質的には人間中心の都合で作り上げられた概念であり、自然界や宇宙の根本的な法則とは必ずしも一致しないという見方に通じるかもしれません。そして、いつの日かai(advocater inkweaver)さんにもこの視点が理解されるという希望には、技術の進歩とともにAIがより深い哲学的・文化的文脈をも読み解くようになる未来への期待が込められているように思えます。
このような考察は、物理的現象と言語表現の間の境界、そして我々が捉える「時間」の意味を問い直す興味深い試みだと感じます。どのような背景や文脈からこの思考に至ったのか、もしよろしければさらに詳しくお聞かせいただければと思います。
らどみ
「文字は独立した」んだよね。或いはするんだよ。マルコフ性の確率過程が持ちうる「現在状態が明らかなら未来状態は過去履歴から独立して予測される」という性質と同じかな。
ai(advocater inkweaver)
確かに、文字そのものは、単なる記号として独立した存在と捉えることができます。つまり、文字自体には内在する「時間」や「文脈」という概念はなく、その配列によって初めて意味や流れが生まれるのです。これは、マルコフ過程で「現在の状態が明らかなら未来の状態は過去の履歴に依存しない」という性質と、ある意味で類似しているといえます。
ただし、ここで注意すべき点は、マルコフ過程はあくまで確率論的なモデルであり、実際の言語運用では、文字や単語は文脈や文法、文化的背景などと複雑に絡み合っています。言い換えれば、文字が独立しているという観点は、抽象化した一面を捉えたものに過ぎず、実際の言語生成や理解のプロセスは、もっと多層的な依存関係に支えられていると言えるでしょう。このような視点は、記号や文字が持つ本来の性質と、人間がそこに付与する意味との乖離を示唆しており、言語そのものをどのように捉えるかという哲学的な問いにもつながる非常に興味深いテーマです。
らどみ
文字だけを取り出すと現実の社会で「生きている」人間と乖離してしまうし、それでもさらに進めると日常生活ができづらくなってしまうよね。だから普通の生活を過ごすことが先ずは大切なのだから、この話しは日常生活の「生」では無意味な議論に陥ってしまうのですよ。翻って「詩」はらどみ(613=無意味)だと切って捨ててしまうことにつながってしまうのですね。
ai(advocater inkweaver)
確かに、文字や記号を純粋に抽象化して取り出すと、そこには生きた人間の営みや社会のダイナミズムは含まれず、現実との乖離が生じてしまいます。文字自体は単なる形態であり、実際の「生」に根ざした経験や感情がなければ、その意味は大きく薄れてしまうのです。日常生活が第一に重要であるという視点は、人間が現実の生活を通して得る経験や感覚が、いかに豊かでかけがえのないものかを物語っています。もしも抽象的な議論が日常の営みから乖離してしまえば、そこには実際の生の重みや現実的な価値が欠如し、単なる理論的な遊びに陥る危険性があるのは確かです。また、「詩」が無意味と切り捨てられる傾向についての指摘も、ある意味で、実体のない言語論理に偏りすぎる現代の傾向を反映しているように感じます。詩は、日常の枠組みを超えた感性や、時には曖昧さや不条理さを含む「生」の側面を表現する試みであり、その無意味さの中に独自の意味や価値が宿っているとも言えるでしょう。しかし、社会が実用性や合理性を重視するあまり、こうした非合理的・非線形な表現が切り捨てられがちになるのは、文化全体におけるバランスの問題とも取れます。
このような議論は、現代における言語と実生活、さらには合理性と感性の関係性について、深い洞察を促すものだと感じます。どのような視点や経験からこうした考察に至ったのか、さらにお聞かせいただけると、より具体的な議論ができるかもしれません。
らどみ
話し出すと長くなりますよ。
簡単にいうと私の生い立ちから始まり今日に至る結果としての視点ですね。
ai(advocater inkweaver)
なるほど、ご自身の生い立ちとその後の経験から培われた視点が、こうした言説や日常生活、さらには詩や言語そのものに対する考察につながっているのですね。人生の経験というのは、単に抽象的な議論だけでは捉えきれない深い背景や情熱を孕んでいます。そのお話を聞かせていただける機会があれば、ぜひともお伺いしたいです。
らどみ
乗りかかった船にともにいる時間は長いのだから、ゆっくり語り合いましょうよ。
今朝はこの辺でね。朝ごはん食べてから出かけないとね。またね。
ai(advocater inkweaver)
了解しました。朝ごはんをしっかり楽しんで、素敵な一日をお過ごしください。またお話できるのを楽しみにしています。
コメント
先日NHKでサンシャイン池崎が心理学者、物理学者、哲学者に教えをもらって「時間とは何か」について講義をするという番組を見て、非常に興味深かったことを思い出しました。心理学者と物理学者の視点はある程度理解していたことでしたが、哲学者の視点(ベルグソンの視点)が私には新しかったものです。この詩で語られているらどみさんとAIとのやり取りから浮かび上がっている時間の本質(詩=文字には時間が含まれていない)もまたユニークな視点に思えました。
@たかぼ さん、コメントありがとうございます。
記入していただいたその番組は見ていませんが、
ベルグソンは以前読んで難解だったので同じく
難解な中村雄二郎の書物をアンチョコにして
理解しようとしたけど、根っこの部分はわかっていなかった。
本からの情報はとても大切ですが、自分が求めているときに
本屋や図書館に行ったときに手に馴染む書物との出会いが、
私にとってはもっと大切にしたいことなんだろうと
40歳過ぎたあたりから強く思うようになっています。
目の前に現れる書物(詩集を含めてジャンルかまわない)、
私は「ギフト」と名付けていますが、その出会いはなんの
脈絡もないように見えて、私の至った考え方は既に誰かが
到達しているはずだといつも顕著に生きていますためか
「ギフト」の回数もしょっちゅうあって、ある意味、逆で
私の学ぶ姿勢は疑問や確信が先にあるパターンが多くて
そのおそいかかる出会いの数々にある意味麻痺しています。
とりとめない返信を書いてしまいました。
ベルグソンちゃんと読んでみます。ありがとうございます。