
偽望
この国に平和に住んでるくせに、どうやったら絶望なんてものを味わえるというのやろか。絶望っていうのは、目の前で妻を犯されて、その横で自分の赤ちゃんをサッカーボールのように蹴り殺されて、それでも抵抗できないように縛られて、最終的には復讐もできないように手足を斬られるような状況に陥れられることだ。それぐらいの想像力を働かせろ、馬鹿者よ。
重い言葉は必要以上に重たく考えてるんだろうか。だから私の書くような軽快な言葉を軽く見てるのだろうか。
馬鹿者たちの書く絶望や悲劇なんぞより、私の書く希望や喜劇のほうが、ずっと重い想いを込めている。
絶望して死にたいとか書く人たちは、半年なり一年なりバイトして溜めた金をもって、悲惨な紛争をしている地域に何故行かないのか? そこで暮らせば、なにが悲惨で、なにが幸せなのかくらいのことは解るだろうに。行ってみなさいよ、簡単に行けるじゃん、今の日本に住んでいるのなら。
▼「(ふしぎにすべてが似かよってくる)」飯島耕一『新選 飯島耕一詩集 新選現代詩文庫103』思潮社
一つのことは信じよう。
そのうえぼくは何を信じればいい?
くだかれたぼくらの心の
久しい絶望、久しい虚構をみたすためには、そのためには、
一つの夜
一つの朝の、
さわやかな空気
青空の抜く手をみせぬ不意打ち、
ふきこぼれるガソリンのにおいのように鮮烈な
一つの出会いがあれば
じゅうぶんだ。
▼「自作を語る」吉野弘(全)『現代詩大系―⑤』思潮社
華麗な顔立ちを持ち、鼻もちならぬ醜悪さをかくしている企業というものを考えると、私は、資本主義体制ばかりでなく、人間そのものに、一種の絶望をおぼえる。
確かに、企業は、資本が人間を使う形ではあるけれども、人間が人間を、何等かの手段として狡智をもって使う体制は、人間のある限り、ついに止むことはあるまい。
人間の生は、生きようとする意志に支えられているが、同時に同じ力でそれを破壊しようとしている(セックスだってしかり)。だから人間の社会もまた常に自己抹殺の意思を捨て得ない。革命とは結局、建設などではなくて、自己破壊のヴァリエーションにすぎないのではなかろうか。こんなことを考えると、これまでの私の作品は、まことにちょろいものである。
▼『カミュの手帖〈第2〉反抗の論理 (1965年)』アルベール・カミュ/高畠正明訳 新潮文庫
絶望の瞬間にもひとはものを書く。だが一体、絶望とはなんだろう?
▼『ファーブル昆虫記7(完訳)』J.H.ファーブル/山田吉彦訳 岩波文庫
死をちっとも知らない、したがってそれを真似られない昆虫は、また自殺、大きすぎる苦しみをさっぱりと片づける絶望的なこの手段も知らない。
▼『ファーブル昆虫記7(完訳)』J.H.ファーブル/山田吉彦訳 岩波文庫
「君の数々の不幸がどんなに大きくとも、不幸の最大なるものは絶望に負けて死ぬことだ。他のすべてのことは取り返しがつく、だが、これは後で取り返しのつかないことだ。君にとってもう一切が駄目だなんて信じてはならない。多くの世紀の経験によって争うべからざるものとなった真理を信ずるように努めたがよい。この真理とは、次のようなものだ。人は生きている限り何ごとも彼にとって絶望ではない。人は最大の悲しみから、最大の喜びに、最悪の不幸から、最大の幸福に移ることができる。元気を出して、あたかも今日生命の価値を知ったかのように、いつもそれを大切にするようにしたがよい。」
注)「」は孔子の言葉。
▼『エセー』モンテーニュ/原二郎訳 岩波文庫
一度死が彼らの不意をついて、彼ら自身に、彼らの妻に、子供たちに、友人たちに、襲いかかると、どれほどの苦痛、叫喚、狂乱、絶望に押しつぶされることだろう。
▼
私は人生に絶望したのではなくてね
自分に絶望したのだよ
私は世の中に絶望したのではなくてね
自分に絶望したのだよ
だからなにを言っても無駄
社会批判だの政治家批判だの
日々流される事件事故への正否、罪悪なんかをね
書き出して声をあげたところでどうにもならないことはよく分かっている
きのうは猫を殴り殺した
親とはぐれたらしい子猫が夜中にずっと鳴いているのにむかついて
より正確にはコンクリートの壁にたたきつけて殺したのさ
そんな風にして、私に寄ってくる猫を殺すことはよくある
驚いたかい?
君はきっとこれは嘘だと思っただろう
そのとおり、嘘さ
けれど厭な気持ちにさせたことは本当だろう
「そういうの知ってる、ショック療法って言うんでしょ」
って、うるさいよ
君の書いている詩がこれと同じように
私を厭な気持ちにさせていることの理解はできないだろう
そう、君も
自分に絶望しているのだから
でも、絶望とか言ってみたりしながらも
腹が減ったから何か食べようと思って冷蔵庫をあさったり
気張った格好もできないから夜中にジャージでコンビニに買い物に行って買い食いしたりするんだ
そのとき寄ってきた猫がいればもちろん蹴り殺す
こういった文章や言葉が
なにかの力になるのか、
なんて私は知らない
私が知っているのはただ
自分に絶望したということだけだ
▼『草の葉』ホイットマン/酒本雅之訳 岩波文庫
そういえばたった今、ちょうど大詩人が向こうの方へ行ったところだ。彼の後姿をとっくりと見たまえ。彼が通りすぎた後には、絶望や人間嫌いや狡知や排他心、あるいはおのれの出生や皮膚の色を恥じる心、地獄についての妄想や邪心などは、ほんの少しの痕跡すら残されてはいない――そして、大詩人の後姿を見送ってからというものは、何びとも無知や弱点や罪ゆえに堕落することはない。最大の詩人には、つまらぬとか些細ななどという評言はほとんど理解できない。以前には卑小だと思われていたものでも、いったん詩人が息を吹きこめば、宇宙の壮大な生命をはらんで拡大する。
▼『詞集 たいまつⅠ』むのたけじ 評論社
希望というも絶望というも、つまるところ一種の符号であり、弾丸のようなものだ。火薬がつまっていなければ、何ごともはじまらない。生きていることの全重量によって点火されておらないなら、絶望を語ろうともむなしく、希望を語るなら一層むなしい。
▼『詞集 たいまつⅠ』むのたけじ 評論社
希望の根は絶望の深さに沿うて張る。希望を希望するなら、絶望に絶望せよ。絶望が本当なら、希望も本当だ。
▼『詞集 たいまつⅠ』むのたけじ 評論社
二度絶望することはない。二度は絶望できない。二度絶望したと思っている者は、一度も絶望していない。
▼『星の光、いまは遠く』ジョージ・R・R・マーティン/酒井昭伸訳 ハヤカワ文庫
ここはまだ頑固に生き延びているわ。絶望を称揚し、みずからがしがみつく生の虚しさを強調するのが目的のくせに、おかしいでしょう?
▼「壁」カヴァフィス/中井久夫訳『カヴァフィス全詩集』みすず書房
こころづかいも あわれみも 恥さえなくて
私のまわりを高い厚い壁で囲んだ奴等。
今は腰をおとし ただ絶望する私。
ひたすら考える、魂をさいなむこの悲運。
そとでやりたいことは 山ほどあった。
壁をきずかれて気づかなんだ 迂闊な私。
だが気配すらなかった。音ひとつせなんだ。
こっそりと私を外界からしめだした奴等め。
▼
小さすぎる絶望はよく見えないので、いつも踏みつけてしまう。
「ちゃんと見ろよ!」と絶望に怒られるものの、少し経つと忘れてまた踏みつけてしまう。
ならばと、蛍光ピンクのジャケットを羽織りだした。
小さくて蛍光ピンクの絶望は、ちょっと可愛い。
ピンクの絶望と
アル中の希望と
見てもらえないから狂気を装い騒ぎだし
見つからないのは他人のせいにする
神々の名は付けられないなあと、
いまどきの詩人は頭を悩ませる。
▼『ゲーテ全集 第一巻詩集』ゲーテ/高安国世訳 人文書院
そうだ 罵るだけ罵れ 呪うだけ呪え
事態は決して好転すまい
ばかげた言葉にすぎぬのは「慰め」
絶望することを知らぬ者は 生きるにも値しない
▼
UFOキャッチャーで希望をたくさんつまんで両手に抱えて帰っている最中に円盤につままれた🛸
中にいたのは両手がハサミのおなじみ星人で希望をわけてくれとせがまれた🦀
自分たちの星は核実験で壊滅したそうだ💥
そりゃ絶望するよな。あんたの望みはなんだい?
▼『ヴァレリー・セレクション 下』ポール・ヴァレリー/東宏治・松田浩則編訳 平凡社
それにしてもわたしが素朴な疑問をもったのは、自分のことと神にしかむかなくなった人間、自分が見捨てられるか救済されるかしか考えられなくなった人間、そして自分が将来他人からどう見られるのかだけが気になる人間――それは絶望してみじめにも裸で、間近に虚無をもつ孤独な人間にはいかにも似つかわしいが――そういう人間がはたしてなおものを書こうという遊び心を抱くものだろうか?ということだ。
わたしが思うに、人はだれか読み手がなければ決してものを書かないし、一人以上の読み手がなければ、技巧をこらして書いたりしない。わたしたちにとってまだだれか一人でも大切な人があるかぎり、わたしたちの苦しみはまだまだ手に負えるものだし、その苦しみはまだわたしたちの役に立つことができる。
もしわたしがすべては虚しいと感じるなら、そういう考えそのものが、そう書くことをわたしに禁じるはずだ。
ところが実際には人間はすべてを、天国も栄誉もどちらも所有したいと望む。
▼
血を吸って生き続けてきた
吸血鬼は
知を吸って
生き続けることに意味などないと
絶望した
死を吸っても死ぬことのできない
吸血鬼は
陽を浴びて身体が燃えだした
これで死ねると
灰になった
地の下から
薔薇が発芽した
▼「街上の歓声」(全)萩原恭次郎
誰だ かの雑沓中に
破裂する汽鑵にも似たる喚声に
自ら武装し
短軀を火のやうに怒らし
一集団の中心となりて
街上に声を放ちをる争擾は
冬の夕暮れを
空に抛物線を描いて投ぜられるものは
彼等の靴か! 帽子か!
凶器か!
否! 否! 否!
それは群集にとりかこまれたる
悲しくも怒りたる一無産者の
憤ろしい砲弾のやうな肉体!
爆ねよう爆ねようとする
危険なる一無産者の怒り!
彼が絶望と
彼が恐怖の固り!
おヽ そして どつと起りひろがる
群集の 街上の歓声
其は何故の歓声か
其は何故の歓声であるのか
悲しい悲しい冬の夕暮れに――
▼
昔書いた友人の自殺した話を紹介したあとで、3月は自殺対策強化月間だと知った。
自殺について私が思うのは、自分を無価値な存在だと思うのであれば、私の知らないところで、私には絶対に伝わらないようにしてから勝手に死ねばいいというものだ。でも、これは実はめちゃくちゃ難しいことだ。それはなぜか?
自作詩『あいす』のアイデアにも使っていることなのだけど、自分にとってとてつもなく大切な相手が見つかった場合、その人が100%幸せになるためにはどうすればいいか? そうすると、その相手にとって大切な家族や、友人、知人のそのまた知人~と、関連しあうすべての人(生物)が幸せにならなければ100%完全な幸福を与えることはできないという考えに達する。もちろん、この発想が非現実的な極論であることは理解している。けれども、どこまでそれを目指せるのかということを考え、行動することは、現実社会としっかり繋がっている。これを自殺に当てはめると、自殺をして、死なれてしまって悲しむ家族、友人、知人のそのまた知人~と、自殺者と関連の強い人から順に幸福が奪われてしまうことになる。その関連する人たちの輪の中に、私や、私の大切な愛人が入る可能性は常にある。これは、「他所で勝手に死んでくれ」ということとは違う。他所で死なれようが、富士の樹海で死なれようが、自殺したということがこっちに伝わった時点で、無関係ではなくなるということだ。世の中にとって自分が無価値だとかなんだとか、そんなのはどうでもいいことだ。それよりも、自分が関連しあった友人や他人について、その人が自分の目の前で自殺したらどう感じるのか? また、自殺された家族や友人が絶望しているときに、なんの力添えもできないことをどう思うのか?
否定的なものの見方しかできないタイプの人は「自分、自分、自分のことばかり」と思い込んで落ち込んだりしがちだが、本当に自分のことばかり考える人になれば、他人に興味をもつのは必然である。人類(哺乳類)は、自分ひとりでは、赤子から幼児・大人に成長することはできない。昆虫のように、卵から孵ってそのまま単体で成虫になるようにはできていない。自分が小中学生である時点で、なんらかの他人(親・里親・施設の人)に育てられたから生き残っているのが事実だ。自分は他人によって成長してきたのである。自分のことだけ考えるというのは、そんなに簡単なことではない。
▼『失楽園』ジョン・ミルトン/平井正穂訳 岩波文庫
決意を絶望からえられるか、そういうことを相談したいと思うのだ」
▼『リア王』シェイクスピア/福田恆存訳 新潮文庫
人の絶望をこうまで弄ぶのも、詰りはそれを直してあげたいからだ。
▼「絶望のとなり」やなせたかし
絶望のとなりに
だれかが
そっと腰かけた
絶望は
となりのひとに聞いた
「あなたはいったい
誰ですか」
となりのひとは
ほほえんだ
「私の名前は
希望です」
▼『ブレイクの飛翔』レイ・ファラデイ・ネルスン/矢野徹訳 ハヤカワ文庫
「あなた、何を考えているの?」
「絶望ということをね」
「絶望?」
「ぼくは、むしろそれを好むようになってきた。人がまったく、ほんの少しも希望を持っていないとき、人は、すべてのことを考え、勝利以上に魂を満足させる特別な平和というものを感じはじめる。絶望と自由の中に満足がある。ほかのことを考えるという自由だ」彼はため息をつき、微笑した。「ぼくのいう意味、わかるかい?」
「いいえ、わからないわ。あたしは、絶望などしていないんですもの」
「すると、きみは愚か者だよ、ケイト」
▼『エンディミオン』ダン・シモンズ/酒井昭伸訳 早川書房
疲れきったぼくの心の一部は、そのあいだじゅう、神学的なことを考えていた。祈ったのではない。その被造物たちにこんなふうに相争わせる宇宙神のことを考えていたのだ。どれだけ多くの類人猿や哺乳類が、その他の何兆もの生物が、最後の瞬間、こんな恐怖をいだいたことだろう。どれだけの個体が、心臓をはげしく搏たせ、アドレナリンを全身に横溢させ、それによっていっそう疲弊しつつ、貧弱な精神で絶望的な脱出の方策をさがしもとめたことだろう。みずからを慈悲深い神、もしくは女神と名乗る存在に、こんな牙の生えた捕食動物を宇宙に満ちあふれさせるようなまねがどうしてできたのだろう。
▼『聖約(またはウォルト・ホイットマン讃歌)』エリカ・ジョング/青山みゆき訳
うつろな心からどうやって歓びを紡ぎ出すのか。
歓びの卵は絶望のさなかに育つもの。
暗黒のオルガズムは世界を痙攣させ、
歓びを追求する者たちが群れひしめく。
▼『太陽の讃歌―カミュの手帖1』アルベール・カミュ/高畠正明訳 新潮文庫
八月の荒れ模様の空。ひどく風が吹いている。黒い雲。だが東の方に、青い、えもいえぬ美しい透明な空がたなびいている。その空をみつめていることはできない。それは、眼と魂にとまどいを覚えさせる。美は、耐えがたいからだ。できれば時間の流れにそって無限にひきのばしたいと思うこの一瞬の永遠性が、ぼくらを絶望にかりたてる。
▼『弓と竪琴』オクタビオ・パス/牛島信明訳 岩波文庫
ポエジーはこの世界を啓示し、さらにもうひとつの世界を創造する。選良の糧【パン】であり、同時に呪われた食物である。それは孤立させ、また結合させる。旅への誘いであり、故里への回帰である。インスピレーションであり、呼吸であり、筋肉運動である。虚無に向けた祈り、不在との対話――倦怠と苦悩と絶望がそれを養う。
▼
芸術にかぶれた人はよく、「わたしは歌がないと生きられない」とか、「書かないと死んでしまう」とかいった台詞を言うことがあるんだけど、こういう台詞を平気で言っちゃう人はたいがい胡散臭い。前者は、「なら、毎日部屋で歌ってたらいいじゃん」で済む話だし、後者は、そういう人が毎日どれくらいの文章を書いているのかを見れば、その真相は判る。まあ、たいていは毎日書くようなことはしていてない。まずそこはクリアーして、毎日書いてるんだけど、どういうものが「書かざるをえない」ものになりうるのか? を考えてみる。
現代の日本では、どんな物事を書いて発表しても規制されることはない(個人情報は除く)。最近話題になった はすみとしこ氏の作品なんかを描き発表する自由もある(それに反対する自由もある)。でも、こういうものは「書かざるをえない」ものとはいえないだろう。自分の生活に直接関係するわけではない物事についてあれこれと意見を書く、というのは創作物と変わらない。なにを書いてもいい世の中なんだから、「○○人は死ね」と書くことは、「火星人は死ね」と書くことと変わりはない。そうではなくて、「○○人は死ね」と書いて発表すれば命の危険につながったり、発表できない状況下にあったりするにも関わらず書くようなば場合に「書かざるをえない」ものというのがあてはまる。では、今の日本のような社会に生きているわれわれには「書かざるをえない」ものはありえないのか?
基本的にはないのだろうけれど、震災被害に遭った人たちはそのことを書かざるをえなくなるだろう。では、戦争や災害のような悲劇的なことを実体験した人しか「書かざるをえない」ものというのは存在しないのか?
規制の厳しい状況下にいることや、悲劇的なことを体験したからその人物の書くものが=「書かざるをえない」ものなわけではない。肝はどこだろう? 悲惨な状況下においては、それを世の中の人に知らせる目的があり、「書かざるをえない」ものが生まれる。悲惨ではない状況下においては、悲惨ではない状況を世の中の人に知らせる目的のために「書かざるをえない」ものを生み出せばいいのではないか。悲惨ではない状況というのは、要するに幸せな日常ということだ。
戦時下で書かれた作品をたくさん読んでいると絶望を謳った詩の質の高さを感じることがある。それは「書かざるえない」状況下にあったからだろう。そういうものに接すると、現代日本に平和に暮しているくせに、不平不満ばかり書いてる詩がペラペラに見えてくる。
▼『T.S.エリオットの詩学―その詩魂と詩想のかたち』丸小哲雄 英宝社
現代人の生の方向が喪われ、そのために虚無と絶望がますます深化し苦悩する現代人の実相を徹底的に探求して、そしてそれを抽出することを企てた
▼「ヘンリー六世 第一部」シェイクスピア/小津次郎・貴志哲雄訳『シェイクスピアⅢ 世界古典文学全集43』筑摩書房
だが今や、あの絶望の仲裁人、
正義の使い手なる死、そうだ、人間の辛苦を親切に裁くあの死が、
わしを優しく解き放ってこの世から行かせてくれる。
▼「リチャード三世」シェイクスピア/大山俊一訳『シェイクスピアⅢ 世界古典文学全集43』筑摩書房
恐ろしい人殺しだ、この上なく恐ろしい人殺しだ!
今までに犯した、各種各様の罪悪が、一度に法廷に
群がって、てんでに「有罪! 有罪!」とわめきたてる。
おれは絶望しそうだ。おれを愛してくれる者は一人もおらん。
おれが死んだって、誰一人「かわいそうに」と思ってくれる者はない。
▼「リチャード二世」シェイクスピア/菅泰男訳『シェイクスピア全集4 史劇Ⅰ』筑摩書房
わたしは絶望します。人をあざむく希望は
きらいです。希望は、おべっか使いの
寄生虫です。死ぬのを邪魔するおせっかいです。せっかく、死が命の絆をときはなしてくれようというものを、
希望は人をだましていつまでもぐずぐず生きのびさせる。
▼「ヘンリー四世 第二部」シェイクスピア/小田島雄志訳『ヘンリー四世 第二部』白水uブックス
いや、害があるのだ、もしも今度の戦が、それも
目前に迫った、と言うよりすでに開始された戦闘が、
春のはじめにふくらむ蕾を見て秋の実りを期待するような
淡い希望にささえられているとすれば。そのような希望は、
時ならぬ霜にやられるのではないかと恐れる絶望と同じく、
なんの保証も与えてはくれぬ。
▼『アヴァロンの霧1 異教の女王』マリオン・ジマー・ブラッドリー/岩原明子訳 ハヤカワ文庫
いいこと、どんな時も希望を失わないで。絶望してはだめよ! わたしたちの苦しみすべてには一つのパターンがあるの。わたしは見て知ってるの……
▼『ブレイクの飛翔』レイ・ファラデイ・ネルスン/矢野徹訳 ハヤカワ文庫
「彼が何をしようとかまわない。たとえ彼があたしを愛していなくても、あたしはまだ彼を愛することができるわ。たとえ彼があたしに誠実でなくたって、あたしは彼に貞節でいられるわ。だれも、彼であっても、あたしに意志に反するように感情を変えることなどできないわ。だれも、彼であっても、あたしを絶望させることなどできないのよ。だから、あたし絶望したりしないわ! しませんとも!
▼『ヴァレリー・セレクション 上』ポール・ヴァレリー/東宏治・松田浩則編訳 平凡社
花崗岩にぶつかれ、花崗岩に向かって自らを奮い立たせよ。そして、しばらくは絶望せよ。汝の空しい興奮が崩れ、汝の諸々の意図が挫折するのを見よ。おそらく、まだ汝は自己満足よりも自らの決断の方を好むほど賢明ではない。汝は、この石が硬すぎると思い、蝋の柔らかさや、粘土の従順さを夢見るのだろうか。だが、汝は苛立った汝の思考の道をたどっていくべきだ。そうすれば、まもなく、次のような地獄の碑銘にぶつかることだろう。「存在しないものほど美しいものはない。」
▼『ヴァレリー・セレクション 上』ポール・ヴァレリー/東宏治・松田浩則編訳 平凡社
その頃わたしは二十歳で、ものを考えることに強大な力があると信じていた。そして自分の存在感と無力感のあいだで奇妙に苦しんでいた。ときどき自分のなかに無限の力を感じるのだが、その力は具体的な問題にぶつかると雲散霧消し、自分の実際的な能力の弱さに絶望するのだった。わたしは陰鬱で、軽薄、見たところ扱いやすそうだが、そのじつ頑固、軽蔑するときは極端で、何かに感嘆するとそれはもう絶対的なものとなり、簡単に印象を受けいれるくせに、人に説得されることはありえない。わたしは自分のなかで思い浮かんだいくつかの考えに自信をもっていた。そしてその考えが、それを思いついた自分の気性と一致していることを、その考えに普遍的な価値がある証拠だと勘違いしたものだ。それはわたしの頭にこんなにも明白に思えるのだがら、疑いようがないということだった。願望が生み出すものはつねにもっとも自明なものとなるのである。
▼『ヴァレリー・セレクション 上』ポール・ヴァレリー/東宏治・松田浩則編訳 平凡社
芸術作品がわたしたちに教えることは、人間のなかには、たんなる鑑賞者よりもはるかに鋭敏で、自己自身や自分の眼や手を統率でき、特化され組織化された人たちがいるということであって、たんなる観賞者は、できあがった作品をただながめるにとどまり、そこにいたるまでの数々の試み、描き直し、絶望、犠牲、借用、ごまかし、費やされた年月、そして幸運など――要するに完成した画面からは消え、隠され、拭いとられ、溶解し、抹殺され否定されたもの、けっきょく人間の本性にかなうもので、なにかあざといものへの期待(もっともこれは人間の本性に不可欠の本能であるが)とは逆なもの――を見ないのだ。
▼『ヴァレリー・セレクション 下』ポール・ヴァレリー/東宏治・松田浩則編訳 平凡社
彼は自分を絶望させるものを必死に求め、自分の個人的な関心を押しつけないではいられない。
▼『ヴァレリー・セレクション 下』ポール・ヴァレリー/東宏治・松田浩則編訳 平凡社
精神の眼差しは、数ヵ月のうちに、希望が絶望に変化するのを、正反対のものが生起するのを目にします。もっとも緊密な同盟関係が敵対関係に変わり、勝利が敗北に、敗北が勝利に変わるのを目にするのです。
▼『時間のない時間』芒克【マンク】/是永駿訳 書肆山田
8
一面の静寂その中に静寂がある
ひとりの男の炎の中で
沸騰する湯となるひとりの女
ハッハッと高笑いする者がいて
わたしは夢の牢獄に送りこまれ
思いをめぐらすは夢の中
息吹きかえすも夢の中
一面の静寂その中に静寂がある
わたしの黒い夢の中で
誰があげるのか絶望の叫び
その声が長い矛となってわたしを刺し貫く
なのに血は流れない
わたしには血がない
わたしの体は透明
わたしには色がない
▼『ファウスト 第二部』ゲーテ/池内紀訳 集英社
波はそれ自体が不毛で、はてしなくのびて忍びより、ただただ不毛をふりまいている。ふくれ、盛り上がり、うず巻いて、なだれかかる。荒涼とした一帯がひろがるばかり。波は力強く寄せてくるが、引いたあとは何も実らせない。土と水と風のなすがまま、意味のない力に苛立って、絶望したくもなろうじゃないか。そこで思い立った。ここで戦ってみる。勝ってみせる。
▼『ファウスト 第二部』ゲーテ/池内紀訳 集英社
行くか、もどるか、まん中で往きてくれた。深みにはまって、何ひとつきちんと見えない。自分と他人をうんざりさせて、息つぎながら、息をつまらせ、生きてはいても生気なく、絶望からも献身からも見放され、ただわけもなく転がっている。やめるのは辛いが、するのもいや。解かれたとたんに押さえられ、眠りは浅く、目覚めは遅い。この場に足は釘づけ、ただ地獄行きを待っている。
▼『バイロン詩集』阿部知二訳 小沢書店
5
恋人の現在のありさまと未来とのあいだには
いわば、一種の反感が存在するようだ。
正直だともいえぬ甘い言葉でつつまれているうちに
おそまきながら、ほんとうのことが訪れてくる
さて、そのときは、絶望するほかに何ができようか。
その対照において、同じものでも名が変ってくる
たとえば、情熱は、恋人の場合はかがやかしく
夫の場合は、妻に惚【のろ】いのだといわれてしまう。
▼「セイレーン」ジュゼッペ・ウンガレッティ/河島英昭訳『ウンガレッティ全詩集』岩波文庫
不吉な魂
あなたが点して愛を搔き乱すものよ、
安らぎもなく高みへぼくが戻るために
辛抱づよくあなたは顔立ちを変えてゆく、
そしてぼくが目的地に着くまえに、早くも
まだ幻滅していないぼくを
別の夢へと近づける。
穏やかなのに落ち着かない
海にも似て、あなたは宿命の島を
遠くから指し示しては隠してゆく、
果てしない欺瞞で、絶望しない者を
死へとあなたは誘う。
▼
みなそこを、
歩くのが、
そんなに、
絶望的なんや、、
ふーん、、、、
おれらみんな、
みなそこを、
歩くけど、
そうやなあ、、
あんまりよーさんは、
エサが、
見つからんのが、
ちと難儀な、
程度かなあ、、、🦀
▼『Human なぜヒトは人間になれたのか』NHKスペシャル取材班 角川書店
「いま、ここをしっかりと生きている、それがチンパンジーだと理解すると、レオがどうしてめげないのか、へこたれないのか、絶望しないのかっていうことと、チンパンジーが優れた瞬間記憶能力を持っていてて、いま目の前にあるものをしっかり記憶できることは同じことなのだとおもうようになりました。ここに生きているわけで、別に明日を憂えてないんですね。1週間先に自分はどうなってしまうんだろう。自分は生涯寝たきりなのだろうか、そういう心配をしていなんじゃないか。100年先の祖先にも、自分の先にある将来にも思いを馳せない。ある意味でそれはそれで美しい世界だと思うんです。我々人間とは随分と違う心の世界を生きているんですよね」
▼『Human なぜヒトは人間になれたのか』NHKスペシャル取材班 角川書店
未来を考えることは、希望と絶望を生む。
未来があることは人間の希望に違いない。しかし、未来があるからこそ人間は絶望する。
未来を考える力を手に入れたときから、私たちの祖先は希望と絶望が交錯する世界を歩みはじめたのだ。
▼
ヒトは、
何を見て、
何を見ないのか、
だと思っていたのだけど、そうではなくて、
何を見たがり、
何を見ようとしないのか、
だと思うようになった。
見ようとせず、したがって知ろうともしていないヒトに対しては、
何を言ったり見せようとしたりしたところで、
のれんに腕押し、馬耳東風にしかならない。
で、そうなると、言葉のやり取りに絶望するようになるのか?
まあ、絶望というほど大げさなものじゃないけど、自分の思い通りの方向に、言葉だけをつかって他人を誘導することは難しいのやろね。でも「誘導」ではなくて「影響」や何らかの「効果」「作用」はある。
なので、価値がないと思った情報を流すヒトからは離れるようにする。
「なら結局、自分の見たくないもの(情報)は見ないということじゃないか」となる矛盾を抱えながら。
▼映画『シン・仮面ライダー』劇中台詞より
絶望はお前だけじゃない。多くの人間が同じように経験している。だがその乗り越え方がみな違う。本郷は本郷の乗り越え方をすればいい。
コメント
おそらくですが、本当に絶望しているひとはきっと
絶望している、などと云ったりはしないでしょうね
それが独り言なのか、はたまた誰かに向かってなのかはアレだけども
云うっていうことそのものにさえも、絶望しきっちゃってるでしょうからね( ≧Д≦)
@雨音陽炎さんへ
コメントありがとう!
単純な言葉の意味として望みを絶たれるっていうことを考えたりします。
やり直しのきかないこと。死以外の多くのことはやり直せる。過去とまったく同じ状況ではないでしょうが。