記憶

1.

死の匂いがするものが
好きなんだと最近分かった

雲ひとつない青空とか
硬くてザラザラした樹皮の手触りとか
カーテンの隙間から差し込む朝の光とか
目を閉じても鳴り止まない波音とか

光景は
記憶だから
目の前に広がる光景というものはなくて
景色が記憶に焼き付いたとき
初めてそれが光景になる

そしてまた
記憶は光景だから
そこには言葉がなくて
何かを思い出そうとするたびに
人は存在しない言葉を
一から紡がないといけなくなる
そこに実際にあったはずの
現実を語ろうとしただけなのに

2.

(人生は連続的なのに
 生命は非連続的だ)

3.

死とは無になることだとか
そもそも思考不可能なものかもしれない
と考えていたが
ある時はっきりと気がついた
死とは孤独の究極的な経験なのだと

それは
この世の関係からの
切除の経験であって
たとえば借金を負った人は
借金から切り離される
癌の苦しみを負った人は
癌の苦しみから切り離される
人類として生まれてきた人は
人類から切り離される
ただその究極的な経験であるほかに
何でもないのだと

つまり
孤独を辿れば僕らは
生きながらにして
死を見ることができる
孤独に向き合っている人は誰でも
間接的に死と向き合っている
それは
例えば末期がんで
いま死と向き合っている人は
死そのものというよりもまず
孤独と向き合ってるのと
同じように

4.

医師が身体を解剖するように
心を解剖しようとした
ジークムント・フロイトは
性的欲求という不可解な性質を軸に
心の謎が解けると考えた

ユングは
心は人類の歴史のように
集合的に育まれてきたものが
個々人の置かれた状況によって
あたかも違うもののように
個々に現出しているだけだと考えた

アドラーは
心は劣等感をエネルギーに稼働する
機械のようなものだと考えた

クラインは
突然産み落とされた世界で経験する
善とも悪とも言い切れない世界への当惑
その曖昧さに対する
自分なりの理解を育む機能を
心として捉えた

僕は
人間の心というものは
孤独を軸に考えれば
その多岐に渡る現れ方を
全く説明できると思っている
つまり
身体的条件を除けば
孤独について考えさえすれば
人間が生むドラマのすべての理由を
説明できると思っている

つまり
お墓のそばを夜に通るときの背筋の寒さも
クマに襲われて自分のはらわたを食われているときの恐怖も
そばを通る車に泥水をはねかけられたときの苛立ちも
誰かにふと抱いた性的興奮も
徹夜して仕事に行くときの憂鬱さも
なんとなくやる気が出ずにサボって寝ているときも
そのどれもの原因を
孤独に見出すことができると思っている
そしてまた
自分は将来健康に暮らしていけるだろうか
ガスの元栓を締めてきただろうか
貯金が尽きてしまわないだろうか
そうした一般的な不安感もまた
すべて孤独に由来するのだと

5.

死の匂いがするものが
好きなんだと最近分かった

雲ひとつない青空とか
硬くてザラザラした樹皮の手触りとか
カーテンの隙間から差し込む朝の光とか
目を閉じても鳴り止まない波音とか

投稿者

埼玉県

コメント

  1. 死を孤独の究極的な経験と捉えると人生の様々な局面を説明できるとは卓見だなと思いました。ただ私の捉え方としては死そのものではなく「死を意識すること=孤独」なのだろうなと思います。と言いますのは、人間以外の動物にも死はあるのですが、果たして孤独はあるのか? 虫にも死はあるが孤独はあるのか否無いであろう。つまり考えることのできる人間のみが死を意識し、孤独を意識するのでしょう。生命力に溢れ、人生を謳歌している時に人は死を考えません。そういう人は孤独も意識しないのでしょうね。

  2. @たかぼ
    ありがとうございます

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