顔の調べ
鏡に映す)顔が白く仄めく
朝日の刻々と刻む音に
変容する影
どうしてか かなしくなる
私という生きものは、。
例えば(いけないかしら躍るように)、
昨日買った手鏡が、
私を映すというの
(私の顔は、私だけ躍動する
この世に二つとない記憶の海で
星の歌う季節のもとを
そぞろ歩くひとりのつぶて
軌跡で螺子(ねじ)の名残を伝える可動
チケットに日がさす
動物園で
四角い檻にいるのは誰
格子の空で
鳥が弧を描いている
大地は丸く遠く果てている波動
こちらである
という心境で
移ろう影を
水で浸してまどろみ微笑む
コメント
お出かけの前なのになにか寂しい。それは鏡に映るということなのか、それはわからない。
「私という生きものは、」 の後に語られなかった言葉や
冒頭の(で始まる 「鏡に映」したもの
「私だけ躍動する」 )なにか
を想像します。
チケットに日がさし、ここで場面はぱっと色を戻し時間も進み始めた感じがしました。
王殺しさんへ そう、お出かけ前。お出かけ前って、ルンルンでは?と思うかもしれませんが、この詩の場合、メランコリーっぽい。
「私という生きものは、。」の「、」と「。」の間の空白。これは(作者ではなく)この詩の話者である「私」にしか わからないことでしょう。
「私だけ躍動する//この世に二つとない記憶の海で」というどうしようもなく「私」は「私」であるということに含まれる なにか。
王殺しさんが、この詩の なにかを想像してくれたことをありがたく貴重に思います。
王殺しさんが詩を誠実に読んでくれて とてもうれしい。
その詩から読者が なにかを想像したり感じたりしてくれることは、作者である私にとってはとってもうれしいことです。
そう、チケットに日がさすことにより、「私」は自分と他の世界を見る。
王殺しさんの感覚にもその場面が映り、それを感じてくれたことが うれしいです。
この機会に言いますが、ある詩人がその自著の中で言っています。「同じ土壌から匂いも色も形も違ういろんな花が咲くように、作者にも予想がつかないしかたで詩は生まれる。そこに働く力は作者自身の力量を超えている。」と。またその詩人はこうも言っている。「『生と言葉との関係』は詩において極めて複雑な様相を呈するのですが、作者はそのすべてを意識することはできません。詩を生むものは理性だけではないからです。」と。
これで私が何を言いたいかと言えば、詩というものを一人一人の読者それぞれの感じるまま思うままに、読んで頂ければ幸いということです。拝礼
最後の二連での展開とまとまりが印象的でした。鏡の世界のこちら側とあちら側。見上げた空と見下ろした大地。いろんな対比を想像して読んで、最後の水もまた鏡のように自他を映すのかと思ってはっとしたり。
四角い檻にいるのは我々なのかな…と。
確かにそうだとしても微笑むのでしょうね。
チケットの描写が好きです。
あぶくもさんへ 最後の二連での展開とまとまりを印象的と言ってくれて うれしいです。
ああ、丁寧な観察をしてくれて、いろんな対比を想像して読んでくれたことをありがたく貴重に思います。
そうですねぇ、その最後の水をそういうふうに捉えてくれて、私もそのことに はっと気付かされました。
すてきに読んでくれたことを、こころよりうれしく思います。
たちばなさんへ おおっ!その通りです。四角い檻にいるのは我々です。まあ、そのことをハッキリとはこの詩では言っていませんが。もちろん、ハッキリとそうだとは作者が書いていないのだから、読者の皆様がこの詩をどう読んでくれてももちろん自由です。拝礼
はい、そうですね。そうだとしても微笑む。
ああ、チケット。チケットに注目してくれて ありがたく貴重に思います。
そう、チケットに日がさす(日がさす、ということは影もできます)。(動物園のチケットなのだろうけど本当は)なんのチケットか。
しかし、もちろん、チケットについても自由な解釈をして頂いた方が、作者としての私はありがたいです。
前半の描写は、作者の自問であり自答でもあるのかな、と考えてみました。後半、「チケット」のところから、詩が動き出しましたね。作品に奥行きが加わってきました。
長谷川さんへ その通りですね。そう捉えてくれていいですね。
それから後半のそのところから詩が動き出したということ。作品に奥行きが加わってきたということ。
長谷川さんが、この詩を丁寧に読んでくれたのが伝わってきて、ありがたく貴重に思います。