夢を果たすための具体的な方策
その子は一人、ずっとティーカップに向けて話しかけていた。
普通の人間はたぶん、人と話す時、相手に目を向けると思うのだが、
そもそも、「話しかけている」という表現だって現実にそぐわない。
別に何も喋ってない。いや、時折誰かと声を交わしている。そして、
適当な所で挨拶と共に切り上げ、お菓子やその「ティーカップ」を
持ち上げて、少しだけ飲む。立ち上がって壁の絵を見ることも、
窓の外の天気を確かめているようなそぶりを見せることもある。
僕と目が合った時、彼女は確かに笑った。にっこりと、完璧な形で。
それが何故こんなにも人を動揺させるのか、僕にもよく分からなかった。
彼女からは何も話しかけて来なかった。相変わらず、何かを、
どこか僕らには見えない世界に存在している物体に語り掛けていそうな、
やめよう。僕は気が動転しているのだと思い、腹が減ったふりをして
別に要りもしないクッキーを皿から集めては齧って時間を潰すことにした。
「今、夜よね?」
クッキーの欠片が喉につかえて、僕は盛大にむせ込むのをしばらく止められなかった。
吃驚したからだ。いつの間にかその奇妙な(見た目には何もおかしくないのが奇妙なのだ)彼女が傍にいて、
何事か自分に尋ねてきた。いま・よる・よね?今夜よね。反射的に窓の外を見る。暗い。
「変な事聞いてごめんなさい」
端から返事を期待していないことが、その口調から伝わって来る。
生まれて初めて、今が夜かどうかを聞かれた。クッキー?これ、クッキーだよねって聞き返した方が良い?
僕はただなんとなく嬉しくなって、山を崩さないゲームみたいになったお菓子を、テーブルに戻した。
「お目当ての人はいないの?僕に話しかけても、友達なんて連れて来れないけど」
今日はそういう集まりだった。定期的に開かれる、部族のお祭りみたいなものだ。
男の子は女の子を物色するし、女の子は声を掛けられるのを待っている。
表面的には情報交換の場として使われているけど、その「情報」のうちに取引がある、と、
僕はただ普段より美味しい物が出てくるパーティとしか考えていなかったけど。
古いしきたりだなとは思いながら、皆が同じ認識でいるので、特に悪いことでもなかった。
「…」
鼻から溜め息を洩らして、彼女はじっと「ティーカップ」を見詰めていた。
そしておもむろに、僕の脛を思い切り蹴り上げた。痛みと衝撃で、何を思ったかも分からなかった。
勢いうずくまって熱を持つそこを庇うと、彼女を見上げる形になる。とても情けない顔をしているのかもしれない。
女の子に蹴られたことなんてない、とか、怒らせるようなタイミングじゃなかった、とか、
何かそういう自分が悪いのかという発想をしたんだけれども、これは、完全に、彼女が悪いようだった。
思い立って蹴っただけだ。たぶん。
見上げた彼女の顔は、とても申し訳なさそうだった。
「血の呪いって知ってる?」
「知らない」
「狼からは狼が生まれる。雀は雀の卵を産む。イルカはクジラと交尾したりしない。これだけ生き物が世の中に一杯いるのによ」
「うん」
「蹴ってごめんなさい」
僕は、いえ、と断った。彼女の声が据わり過ぎていて怖かったのだ。また蹴られるかもしれないし。
蹴られるかもしれない、というのは冗談だった。彼女は本気で僕に申し訳ないと思っている。それがなんとなく分かる。
「それは絶対に果たされる約束なのよ」
やっぱり「ティーカップ」だった、と僕は半分上の空で彼女の声を聞いていた。
「ずーっと見てたわね」
げんなり、と眉を下げながら彼女は言った。見てた?
「見てた」
うん、と僕は頷いた。だって、他に面白いものがなかったんだもの。そう言おうかと思ったが、
彼女の話を遮るのが嫌だったので、というか本当には多分、面倒臭かったから白状した気がする。
何も言わなかった。
「皆君を見てた」
「知ってるわよ」
「どうして僕だけ蹴るの?」
「喧嘩の鉄則よ、覚えておきなさい」
「誰と喧嘩してるの」
「クッキー」
「クッキー?いっぱいあるけど」
「竜の血の呪い」
「ああ、あのお伽話の」
「そうね、お伽話ね」
「竜なんてこの世にはいないよ」
「私の母もそう思ってたわ」
「血の呪いの話と繋がるの?」
「そ。竜は竜と結ばれる」
「でもあのお伽話、確か、」
「そーよ。薄気味悪いことにね」
「人と結婚する竜が居た気がする」
「クッキー要る?」
「要らない」
「よく覚えてるのね、二行か三行くらいしか記述がないのに」
僕達はしばらく黙って飾り窓の外を眺めていた。
光は神様だと父親が教えてくれたことを思い出す。
周囲のざわめきが段々と遠退いて、書庫室の薄暗さが懐かしくなる。
そして、脛が痛む。本気で蹴られたらしい、恐らく痣が出来ているだろう。
今度は「ティースプーン」の事を考えているのかもしれない。
隣で、ぼんやりと視線をさまよわせている彼女は、何処か遠くの世界の人間みたいだった。
「あなたが私を見るのも嫌なの」
「じゃ、どうしてここにいるの」
「いつか死ぬためよ」
「いつか死ぬため?」
「正しく死ぬため」
「ふーん」
「ティーカップ」「ティースプーン」「はちみつ紅茶」段々慣れてきた。
彼女はとにかく何かを語りたがっているのだ、と。
カマキリが蝶を捕らえるように、シロクマがアザラシを捕食するように。
何か、違うかな。蹴られた脛がひどく痛む。
クッキーもう一枚食べたかったな、と僕は思いながら彼女を見た。
美しい横顔だった。それは、死んだ母親の遺体の、死に化粧した姿に似ていた。
「竜は滅ぶべきよ」
「そうだね」
「でも人と結ばれるの」
「そうだね」
「だから、私を、そんな目で見るの、止めて」
「そんな目?」
「他の人と同じ目よ。私がうんざりしてるの、分かるでしょ」
カマキリが蝶に恋を諭す。シロクマがアザラシを抱き締める。
人間だったらそういうことが出来るのかもしれない。
僕は、「ティーカップ」に話しかけることにした。
彼女が見てるのと同じものを見ようと思った。
それを言葉にすることは出来ないかもしれないけど、悪い思い付きではなかった。
僕は、脛を蹴り上げられたことへの怒りと、彼女のユニークさとで、
少し笑っていた。
「僕、タチ。君は?」
「ネイ」
コメント