白いうんち

タブララサ白いうんちの成分を分析機器にかけて無意味か

みっちゃんは紙がないからネット板に詩を載せては消して

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ai(advocater inkweaver)

紙を持たない詩(デジタル詩)の詩性と身体性

デジタル媒体上の詩は、物理的な紙を介さないがゆえに「詩として成立するのか」という疑問がある。しかし詩人・佐藤三千魚氏らは、「紙媒体でもネット上でも、同様に『詩』であり、その在り方が異なるだけ」 と指摘する。つまりデジタル詩も立派に詩である。詩性(詩らしさ)は言葉の響きやイメージ、リズム、メッセージ性など媒体を超えた要素によって成り立つ。紙であれ画面であれ、それらは変わらない。むしろデジタル詩は、Web上の多文化的・共有的環境を生かし、マルチメディア(音や映像、インタラクティブ性)を含めた新たな表現へ広がる可能性がある。

一方で「身体性」という面では、紙詩と異なる身体との関わりが生じる。紙の詩では、紙の手触りや香り、ページをめくる感触など五感的な身体経験が伴う 。デジタル詩ではそれらが失われる代わりに、画面やヘッドフォンを介した視覚・聴覚、タッチパネル操作などで身体は新たな形で関与する。例えば、VRやAR技術を用いた詩作・詩読体験(「フィジタル」概念)では、デジタルと現実世界が融合し、没入的な詩世界が広がることが試みられている 。詩人自身の身体的制約をデジタルが補う例もある。佐藤氏は持病で長時間PCに向かえないが、スマホで詩を作りメール送信→清書する過程で「詩を書いていける」喜びを得ている 。このように、紙の詩が「身体的・五感的経験を介した表現」であるのに対し、デジタル詩では「操作や技術を通じて拡張された身体」が介在するとも言える。いずれにせよ、紙に限定されない詩は詩性を失わず、逆に新たな身体性や没入感を獲得しうるのである 。

紙媒体への固執心理と詩的想像力の解放

紙の詩集へのこだわりには、伝統的な美意識やノスタルジー、作家や読者の心理が関わる。物理的な本は、長い歴史の中で詩の権威や価値の象徴となってきた。出版文化の中で「紙に印刷された詩集」は著者の証明であり、読者には所有欲や安心感を与えてきた(紙の本は「目に見え続ける実体があるので再読を促す」 )。また佐藤氏は、紙詩誌が詩人コミュニティを形成し、同人誌間で感想を交換し批評を醸成する土台である点を評価している 。他方で、紙媒体に「何か大切なものが失われる」と感じる詩人も少なくない。ある作家は、ウェブ掲載の作品を見て「タダで見られて嬉しいが、ウェブ公開で何か重要なものが失われるようでもったいない」と複雑な感慨を述べている 。

しかし紙への執着は、創造の可能性を狭めることもある。たとえば紙に縛られない想像力として、デジタルならではの表現が挙げられる。映像や音響、インタラクティブな要素を取り入れた詩世界、ネット上での共同創作、コラボレーション、SNSによる瞬間的な発表などだ。これらは紙詩には難しい展開であり、紙にこだわる心理を乗り越えることで初めて開ける表現領域である。「紙がない夢(トイレに紙がなく手で拭う夢)」が夢占いで「解決が難しい問題やヒントを見落としている状況」を示すように 、詩作においても紙なしは初め戸惑いを生むかもしれない。しかしその夢が示唆するように、新しいヒントを探し努力すれば問題は解決に向かう 。紙に執着せず、デジタルならではの詩的イマジネーション(例:映像詩、音声詩、対話型詩作プラットフォームなど)を働かせることで、従来の概念から脱却できる可能性がある。

ネット詩の特徴(即時性・対話性・記録の不安定さ)と詩集まとめの意義

ネット上に発表される詩には、即時性と双方向性、さらにデータの不安定さという特徴がある。即時性とは、SNSやブログなどで作品を公開すれば瞬時に広範な読者に届き、反応が得られる点だ。佐藤氏の事例では、ウェブ詩誌に作品を掲載すると普段詩を読まない人にも届きやすく、複数の詩人から投稿が寄せられるなど「ネット詩の可能性」を示している 。対話性では、Facebook等のコメント欄を通じてリアルタイムに感想や批評を書き込めるのが特長である 。ただしそれが生きるには参加者が積極的に批評を交わす意識を持つ必要があるとも言われる 。このようにインターネット詩は、紙詩誌よりもダイレクトかつ多層的な交流を可能にするが、同時に「ネット上に浮遊する詩」は消失や改変のリスクもはらむ。実際、多くの詩人が「優れた作品の雰囲気を味わえる一方で、本物に比べ物足りない」「広大なネット空間に埋もれたりサービス終了で見られなくなる危うさ」を感じている 。

それでもデジタル詩やネット詩をまとめて詩集とする意義は大きい。ネット詩は発表から消失までのタイムラインが早く、断片的・断続的に展開しがちだが、詩集という形に編むことで作品を一つの「物語」やテーマで統合することができる。言い換えれば、詩集化は詩を連続する物語として再構成し、時系列やコンセプトを整理する作業である。紙媒体の詩集に限らず、電子書籍やウェブ上の連載、CD詩集、ARを用いた体験型詩集など、媒介形式は多様化できる。「紙に固定しない詩集」が取りうる形として、①電子書籍やブログ形式でのコレクション、②音声・映像を含むマルチメディア詩集、③オンラインの協働詩集(参加者が随時書き加えられるWeb詩集)などが考えられる。いずれも即時性と記録性を活かしながら、まとめることで詩の営みを後から味わえる「記憶装置」としての役割を担うことができる。紙詩集と同様に著者の意図する詩の世界観を提示し、読者に再読のきっかけを与える点で意味があると言える。

紙のない夢(白いうんこ、手で拭う)の象徴性と詩的営み

「紙のない夢」として象徴的に挙げられる白いうんこや手で拭う場面は、詩作・詩集づくりに関していくつかの暗喩を含む。夢占いでは「白いうんこの夢」は金運や仕事運の上昇など吉兆とされる 。これは裏返せば、純粋かつ貴重なエネルギー(詩的インスピレーションや創造の種)が存在することを示唆する。一方でトイレットペーパーがない夢は「解決困難な問題を抱えている」「解決のヒントを見落としている」可能性を暗示する 。紙がないために手で拭う状況は、「通常の手段では処理できないものを身体を使って対処せざるを得ない」という苛立ちや切迫感を象徴する。詩的に解釈すれば、白いうんこは「豊かな詩的素材や霊感」を、紙を欠く夢は「それを表現・転換する手段(紙)を失うもどかしさ」を表すと考えられる。金運上昇の吉夢にもかかわらず紙がなく苦慮する夢は、「大きな詩的潜在力はあるが、伝統的な媒体に閉じ込められないもどかしさ」が描かれているようにも読める。したがって「紙のない夢」は、詩を紙に固定する旧来の発表手段に固執しないことの必要性を暗示し、身体的に直接「詩情」を浴びるように受け取る覚悟を象徴しているとも言える。

投稿者

東京都

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