今日も 日は昇り日は沈む

私の
終りの後にも
続く
誰かの
すばらしいいのち

誰か
という

という
誰か

それでも
世界は
進んでゆく
そして、回り回って
全てはつながっている

生きていることが尊い
苦しい時は苦しみ
悲しい時は悲しむ
そのかわりに
嬉しい時は喜ぶ

何が災いするか
わからないかわりに
何が幸いするか
わからない
いのち

今日も
日は昇り
日は沈む。
私の
終りの後にも

投稿者

コメント

  1. そうですね。世界はずっと、静かに、進んでいく。私たちは、その片隅に、そっと佇んでいる。生きている。そして死んでいく。

  2. @長谷川 忍 さん ありがとうございます♪
    長谷川さんの おっしゃる通りです。^^
    生きて、死ぬ、突き詰めて行くと、最終的には、そういう結論に至るのだと思います。それでいいんだと思います。^^
    長谷川さん、ありがとうさま♪☆^^

  3. そうですよね…そうなんだよね。そう思うと、一人で死ぬことが、もうたまらなく寂しくて、みんなで終わりたいです。

  4. なにが幸いするかわからないよなぁ
    そしてなにが災いするかも、わからない

    人生って最高やで!

  5. @花巻まりか
    花巻さん!みんなで終わったら
    みんな終わっちゃうよお!

  6. @那津na2
    さん、寂しいからみんなで終わってよ〜〜ひとりぼっちやだ!

  7. @花巻まりか さん ありがとうございます♪
    ああ、一人で死ぬのは嫌だという、そういう人の方が多いのかもしれませんね。
    でも、(常識とは異なるという意味において)変な話、既に死んでいる存在が在るのだから、独りで死ぬんじゃないと思いますよ。仏さんたちといっしょ(一緒・一所)です。なので、いつどこで死んでも、独りぼっちじゃあないですね。

    ちなみに、私にとって、死は絶対的な希望です。なぜなら、死は、「この世」からの解放だからです。肉体から解き放たれて、魂は自由になる?からです。
    でも、わざわざ、自殺はしません。死は、どんなことがあろうとも、いずれどの道、訪れるからです。だから、絶対的な希望だと「私は」『思う』んです。

    この詩では、「私」が死んでも、「誰か」は、生きててくれる。「私」が居なくなっても、世界は、在り続けて、日は昇り日は沈む。ということです。それは、すばらしいことだと思います。「私」が死んでも、世界は在り続けるなんて、当然なことでしょうけれども、それってよくよく考えてみれば、すごいことだと思いませんか。

    まあ、以上は、私個人の 死生観ですから、参考にはならないでしょうけれどね。^^

    花巻さん、何はともあれ、ありがとうさま♪☆^^

  8. @那津na2 さん ありがとうございます♪
    何が災いするか
    わからないかわりに
    何が幸いするか
    わからない

    です。
    一見、それは「災い」だったかもしれない。でも、その災いが、幸いの元になるかもしれないことってありませんか。
    たとえば、寝坊したことで、通勤や通学途中で、交通事故にあわずに済んだりね。他にも、いろいろそういうことって日常的にあると思います。

    そう、人生って最高ですね♪
    苦しい時もあるし、悲しい時もある、けれど、楽しい時もある。
    まあ、中には、ずっと苦しいだけの人も居るでしょうけれどね。でも、それを不幸だとは、他人が言えることではないと思う。苦しい人も、一所懸命生きている。生は尊い。そう思う。

    那津さん、ありがとうさま♪☆^^

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