漣(さざなみ)
ひたむきな思いが
街のなかにたたずんでいる
たとえばあおい光景を想像してみようか
だれもが見落としているような
ひとは人生を二度生きているのだ
もうひとつの日々を生きる
風があたり前に吹きわたるものだから
ひとは普段そのことに気がつかない
思いはやがていくつもの漣となって
大切な言葉の源に集う
そのときあなたは初めて悟るのだろう
日々がひとつだけではないことを
ひとは再び香ることができるということを
街はぬくもりに満ちていることを。
ひたむきな思いが
街のなかにたたずんでいる
たとえばあおい光景を想像してみようか
だれもが見落としているような
ひとは人生を二度生きているのだ
もうひとつの日々を生きる
風があたり前に吹きわたるものだから
ひとは普段そのことに気がつかない
思いはやがていくつもの漣となって
大切な言葉の源に集う
そのときあなたは初めて悟るのだろう
日々がひとつだけではないことを
ひとは再び香ることができるということを
街はぬくもりに満ちていることを。
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コメント
ひたむきな思い、その熱量で、街はぬくもりに満ちているんだなとハッとします。
もうひとつの日々を生き、ひとは人生を二度生きる、というところに救われる気がします。
実際に触れることのできる人生と、決して触れられることのない人生の、両方を僕は生きたいなあ。
井上陽水の曲に対するアンチテーゼというか、むしろもっと高次元なハイデガー的な哲学なのかもしれません。そもそも人間と詩人は同時に存在しながら、別のものでもあります。今のところ結局オレは一度の人生を行ったり来たりしているだけのような気がして、その境地に至るにはまだまだ俗物なのかもなあと思います。
自分も何か勇気づけられたり、救われるような気分になりました、何かの可能性を感じることのできる概念なんでしょうか?それとも実際に体験や体感なんでしょうか? 007は2度死ぬとはありましたが、2度生きているというのは、初めての感覚でした。
ボブ・ディランのOne too many mornings のような相まみえることのできなかった世界をいつも見てしまうけど、この詩を読んで歩めなかった世界は実は歩めている世界だと、相まみえていると感じてよいのだと思った。
あぶくもさん
人は、もうひとつの人生を味わいたいために、小説を読んだり、映画を観たり、芝居を観たりするのだ、という話を読んだことがあります(池波正太郎さんのエッセイでしたか)。
実際に触れることのできる人生と、決して触れられることのない人生。この考え方、いいですね! 人生、一度きりではつまらないですもの。
トノモトショウさん
そもそも人間と詩人は同時に存在しながら、別のものである。この考え方、面白いですね。
なぜ、詩を書いているのだろう? ということを、時々考えるんです。もちろん、自分自身のことを書いているわけですが、同時に、もうひとつの世界を味わいたい、という希求があります。…といいつつ、私もまた、一度の人生を行ったり来たりしている。
書くことで、いろいろ味わえたら、と想います。
timoleonさん
日々の慌ただしさ、忙しさに埋もれ、自分自身でいることすら気づかずに生活しています。でも、そんな狭間で、きれいな夕焼けを見たり、友人の温もりに触れたり、ネットで佳い言葉に出合ったり、…それで、ふと自分に戻ったりします。戻るというのも、もうひとつの人生なのかな、などと想ってみたり。WEB詩人会に詩を投稿するのも、もうひとつの人生ですね。
王殺しさん
あぶくもさんが、実際に触れることのできる人生と、決して触れられることのない人生、というふうに書かれていました。王殺しさんのコメントを拝読し、あぶくもさんの言葉を想いました。相まみえる世界と、そうでない世界。歩めている、という王殺しさんのコメントに、嬉しくなりました。
ボブ・ディランの、One too many mornings 、聴いてみたいです。
ああ、良いです。
“ひとは再び香ることができる”って、そうだなあと胸がじんわりします。
誰かが香っていたら耳元で囁いてお伝えしたいと思いました。
街が好きな長谷川さん。
ひとびとが創ったひとびとが繋いでいく場所だからでしょうか。
Yatukaさん
ネット空間も、もうひとつの世界、人生、になるかもしれませんね。私は少し古い世代ですけれども、ネット空間とリアルな空間との距離を考えることがあります。ネット空間は、いろいろ批判されることもありますが、ひとつの「層」と私は捉えています。ひとは重層的に生きているのだ、と。ひとは、奥深いです。
たちばなまこと/mさん
ひとの人生は、一度きりですが、…もしかしたら、自分の気づかないところでいろんな人生を生きているのかな、とも思うのですね。小説を読んだり、映画を観たり、詩を書いたり、ネットで表現してみたり…。私は、街の散策をしながら、時々、もうひとつの人生を味わっております。(^^)
二度生きられるっていいですね!
こうなんだと思い込んでいる自分とまったく違う自分があると面白いです
色の違う写真が、一部分重なるイメージが浮かびました(´∀`)
神紫月あゆさん
色の違う写真が、一部分重なるイメージ…。すてきなイメージですね! 小さな映像がふと浮かんできました。イメージ、想像の豊かさなのでしょう。想像を幾重にもつなげていくことで、もうひとつの人生が見えてくるかもしれません。
王殺しさんへ
ボブ・ディランのOne too many mornings 聴いてみました。
次の歌詞が印象に残りました。
Yes I’m one too many mornings
And a thousand miles behind
そうだ、ぼくは多すぎる朝
そして1000マイルを後にしてきた
長谷川の愚訳であります。
やはり多重である世界や人生を前に、それが多すぎる朝であったりはるかな距離を感じてしまっては切ないですね。
しかしやはり人生はそうなのかもしれません。
だけどそれでもそのパラレルな人生を目をつむってしばし感じるのは、一度しかない命には意義のあること、ひとつの救いのような気がしています。
その漣を私も悟ることができたら うれしいと思います。
そうですね、ひとは人生を二度生きている、のかもしれませんね。うん。
長谷川さんが それを教えてくれた。ありがとうございます。(^-^)
こしごえさん
漣を感じていただいて、私も嬉しく思いました。
詩を書くのも、もうひとつの人生、日々を生きることになるのだろうか、などと考えています。…だとしたら、詩人でいるのも悪くないかな。(^^)