
椎茸とわたし
秋のうちに椎茸を売りたいのである
山道をのぼり、うすぐらい感覚に目覚めていると
脳内に椎茸が生えて来るので、写真機でそれを映して
それから市の文化会館で、椎茸に歌わせるのである
曲目は〈アベルの日曜〉が良いであろう
この開いた傘の襞のしっとりとして、宇宙のように
コリオリの法則で幻覚的症状を引き起こす毎日に
わたしの会員さんたちが、おいしいよ、と言ってくれるので
歌は声である、この野性の声で社会の泥を清めてくれる
文化的生活の一部に、椎茸の必然的歌声がある
山道を削りとって、平にして〈わたしの邸宅〉をつくるのである
そこでは真理が、蚕産の技術で絹の靴下をつくる計画である
しかし古びた木の橋が昨夜の大水で流されてしまった
椎茸たちが手分けして、木を伐り出し、肩に担いで運び
蔦の蔓でしばり、新しい橋をかけてくれた
ありがとう、椎茸たちよ、わたしはフライパンをあたためる
そこに椎茸を裏返して並べて、そこにチーズをのっける
とろけだした頃に、大きな口へほうりこむ
文化的生活の一番大切なことは、新鮮な椎茸を毎日食べることである
山道を登りながら考えた、わたしの邸宅は朝日をあびる
大きな暖炉をこさえて、煉瓦の煙突を立てて、それから
椎茸たちとその暖炉の前で、あたたかく眠ろう
戦争の日々は、まだ先であろうから。
コメント
坂本達雄さんの詩が好きなことは折に触れお伝えしているかと思いますが、この詩はまた一段と、凄い。
最初の何気ない一行。でもこの普通の一行からして、意味は通じるのに、どこか歪んでいます。この一行だけでも何とも味わい深いです。
ここから一気にエスカレート?して、その世界観に引き摺り込まれていきます。
そして、最後の一行これは、作者の坂本達雄さん、また読んだ人ごとの背景により受けとめは違ってくると思いますが、なんとなく、ぱっと思い浮かんだのは、消費される戦争のイメージ、という言葉でした。
実際の戦争を体験したことのない私は、テレビや映画の中の、綺麗な戦争、しかしりません。世界各地で筆舌し難いほど辛い方々がたくさんいるにも関わらず、私は毎日、戦争のイメージを消費している、そのような。
@たけだたもつ
さんへ、基本的には、思いつくままに、書いていますので、最後の一行もまた、われしらず、の世界ではあります、ただこれだけ、人が戦争で死ぬ世界、に生きているのだと、知らされることは、われわれの不幸である、のだと言えるでしょう、そこで、わたしは、どうするのか、これもまた、詩のひとつの問い、であるのです。