山谷堀幻想
舗装された道に沿って
古い堤防の跡が剥き出しになっている。
堀は埋め立てられた
遊歩道が続く
春には桜の名所になるという。
盛り上がった堤防の傍らに
石造りの親柱が残る
聖天橋、と読める
堤防を遡っていくたび親柱が続く
吉野橋
山谷堀橋
紙洗橋
地方新橋
地方橋
橋はすでにない
親柱に彫られた名前だけが
遊歩道の光景と、一時被さる。
*
土手裏に古本屋があってね
店主は頭をきれいに剃り
昔から老人みたいな風貌だった
為永春江か
あの時代の雑誌を手にすると
命が延びるようだな
ここいらで遅くまでやっているのは
古本屋と
煙草を売る荒物屋くらいか。
堀は汚れた路地横を流れる
土手の闇が濃くなっていく。
今来た道を引き返しつつ
浮き世の妙を嗤った
滑稽さも長続きしなくなった
日米開戦を見たまえ
権力の咆哮
人間がつまらなくなったのだよ。
*
スカイツリーは
界隈のどこからでも見える
もうすぐ立春だというのに
寒風は時間軸を抉る
闇の底で激しい渦を巻く。
遊歩道が尽きると
代り映えのしない町並みだ。
作家もかつてこの堤防に沿って遡った
橋を渡ったことだろう
当時の彼の歳を
私は、もう追い越してしまったのだ。
*作家 永井荷風
コメント
取り残されたような風景にスカイツリーが異質です。
この写真に学生のころ目黒や五反田で飲んだくれてた寒い時期、ふと煌々と輝く東京タワーを町の切れ間に見た思い出がよみがえりました。
詩にはお酒の描写はありませんが、どうにも夜も更けたころの独り歩きの匂いが、そういうときのしんとした思考の巡りを感じました。
永井荷風は墨東綺譚を映画で見たことがあるだけで、恥ずかしながらこれまで触れてこなかったのですが、作家もそうして娼街から歩き帰ったのでしょうかね。静まり返り冷える道、花柳の色をスカイツリーの光のように眼鏡に残して。
イタリアに旅行したときの驚きの一つは1000年以上の前の道路や建物が歴史的建造物としてではなく、日常使いのものとして普通に残っているということでした。歩き疲れて道端の岩に腰掛けたとき、この岩もおそらくローマ時代からここにあったのだろうと気がついたときの衝撃をおぼえています。ヨーロッパの石の文化のなせるわざですね。一方、木の文化の日本では町の景色は流転し続けます。私の幼少時に育った町は名古屋駅前の外れで、激変し小綺麗になった地域であり、浮浪者のバラックが建ち並ぶような暗く危険な場所もあった当時の面影は片鱗もありません。大規模な補修を繰り返し数百年来の姿を現代にまで留めているものは名刹などごく一部です。しかしその流転する儚さも日本的と言えないこともないなと思ったりします。
王殺しさん
濹東綺譚の冒頭の場面です。永井荷風を彷彿させる老作家が、浅草を抜けて、山谷堀あたりの寂しい裏町を歩き、馴染みの古本屋を訪ねます。主人公が歩いた同じ道のりを、私も歩いてみたんですね。荷風は好きな作家です。小説もよいですが、私は彼の随筆に惹かれます。
五反田は、飲み屋さんが多いですね。実は、昔、勤務先が五反田のビルに入っていた時期があって、その頃、五反田でよく飲みました。お酒を飲んだ後、夜更けた町を歩いていると、たしかに、不思議な匂いというか、情感に包まれること、あります。
たかぼさん
東京は、関東大震災と、東京大空襲で、古い建物がなくなってしまったようです。欧米と違い、木造建築が多かったので、そのせいもあるかもしれません。90年代頃までは、昭和を彷彿させる町並みがずいぶん残っていました。
それでも、東京の下町あたりを歩いていると、まだ、少し、昭和の風景に出合います。流転する儚さの中の、わずかな余韻なのでしょうね。
全体の詩の姿の空気感も好きですが、「あの時代の雑誌を手にすると/命が延びるようだな」というところが特に好きです。
古本屋は大好きです。東京に住んでいた頃は、住んでいた町にあった4、5件の古本屋を時々ハシゴしていました。
永井荷風さんの本は、ずっと前に家族が貸してくれて読んだことがあります。その本はたぶん(検索してみましたら)『断腸亭日乗』だったと思うのですが、食べものについての描写が、(おぼろな記憶だけど)読んでいておいしかったような気がします。
こしごえさん
古書店めぐりは、私も好きです。思いがけない本や、懐かしい本との再会があります。私の住まいの近くに、一軒、よい感じの古書店があって、贔屓にしています。
『断腸亭日乗』は、荷風日記ですね。断腸亭は、荷風の亭号。彼は、自らの日記を文学の世界にまで高めた、稀有な作家だと思います。
実は、私も亭号を持っています。遊牧亭。(^^)
なんと情緒豊かなお散歩模様。純文学小説の書き出しかと思うような。
「今来た道を引き返しつつ
浮き世の妙を嗤った
滑稽さも長続きしなくなった」
のところに妙に共感します。
いつまでも何度でも読んでいられる詩ですね。
あぶくもさん
文学散歩のような感じで、夜の町を歩いてみました。現在と、過去を、シンクロさせてみたかったのですね。古い町並みと、スカイツリーを、幻想的に結んでみました。…夜の下町を歩くの、好きなんです。