追憶と幻想のソネット1-10
1
ずいぶんとさまよったが
どこにもたどり着けなかった
見てきた光景はどれも格別だったが
月並みといえばそうだった
凡々たる日常の囚われ人でありながら
日常から脱する旅人を強いて演じた
十人並みの精神を抱えつつ
天才をもって任ずる愚者だった
救国の英雄たらんと欲して
既に血の滲む少女の傷からさらに血を流し
過失にしても稚き生き物をあやめた
道端に咲く名も無き花
花弁に戯れる蜂の命に
無用の愛を注ぐのがせめてもの慰めだった
2
多摩モノレールは緩やかに丘陵を進む
高みから日差しを浴びて緑は輝き
多摩動物園の生き物たちは己が場所を得て
秋の日には人々は軽やかに笑いさざめいていた
立川南駅の手前 柴崎体育館駅を降り
水気のある根川緑道の飛び石を跳ね
残堀川沿いの小道はさらに細く奥まっていく
川面には白鷺が優雅な姿をたたえる
川水は澄んで魚がしばし留まっては流れた
立ち並ぶ木々 養老施設は木の葉にひっそり埋もれ
人もおらず 置き忘れられた影どもが
主を喪い途方に暮れて立ちすくむ
夜の帳が降りるや安堵の吐息を
漏らし闇に紛れては消えていく
3
桜美林大学多摩キャンパスのある丘の上
人の気配もなく住宅街がうち続いていた
とある家の庭にはバルコニーがあって
一面の窓は秋の日差しに静まり返っていた
歩き疲れて木の葉が頻りになる頃
ふと白い洋食屋が現れた
近くの市役所勤めが常連だった
遅い昼食を平らげると甘い珈琲を飲んだ
敷地の裏手のほうに白い階段があった
何十年も落ち葉に埋もれていた
踏みしめ降りると幾層もの秋が匂い立った
足元を見やりながら終いまで下る
見上げるとここにもしめやかな住宅街
ここにも今日一日の活計を濡らして雨が降り始める
4
夢ではデクノボウトヨバレ
ホメラレモクニモサレナイ
サウイフモノになりたかった
現には親しい同僚からドブ水を飲む奴と侮られ
朝から風俗街に通うなと揶揄われ
ネタにして強請ろうと盗撮された
タチの悪い冗談に 密かに憤怒の炎を燻らせたが
ヴェスヴィオ山さながらには噴火させられず
こっそり席を立って寒々しい部屋に籠る
サウイフモノになれなかった
サウイフモノに歓迎されなかった
身の丈に合わないプライドを持て余し
詮無い怒りに引きずり回され
しょうもない情念に精魂も尽き果てる
5
片瀬江ノ島駅を出るとやがて一本の道が海を裂き
一葉の島へと広がっている
第一歩は一人の観光客としてだった
人々と共に歩き 人々と共に疲れ 人々と共に舞い戻った
道は中途で左に折れると灯台に出た
地元連が体を焼き 釣りをする行き止まりの高台
程よく右に折れると 欝蒼と木々が茂って濃い影を落とす
急な坂道は足場の悪い石畳 上り下りしながら苦労する近道
坂道の途切れるところ 海は茫洋と広がる
険しい岩場に人知れず降り立つ 稚児ヶ淵
一日中波音だけを耳に滴らせていた
振り向くと島は遠く茫然と霞む
いつ知れず町と陸地から切り離されている
海の一部となって波と共に無心に戯れている
6
「戻るならあの定食屋を曲がると近いですよ」
洒落っ気のない 何の変哲もない定食屋
老いた妻が道に出て か細い声で客を呼び込む
老いた夫が奥まった厨房にひとり立つ店
素通りする人々の背に虚しく妻の声はこだまする
小路を往くさまよいびとはさらに小路を探す
並行世界にすら迷い込みようのない江ノ島は狭小世界
切り立った崖を見下ろし
立ち枯れたかっての飲食店を過ぎ
空をカラスが舞い 地に猫の鳴く神社でしばし休む
いつの世にも哀れな魂はひっそりと息づく
ボウフラを憐れむハエもこの世の末端にうずくまる者
春を謳歌する花々に 情けの吐息を零される小草に過ぎぬ
7
しばらくケータイが不調をきたして文字を打てなかった
江ノ島から右折すれば人混み尋常ならぬ鎌倉へ
左折すれば海と車道を隔つ物静かな砂浜 鵠沼海岸
砂道は徐々に荒れ 人を数えなくなっていく 辻堂海岸
運が良ければ悠然として不二が顔を出す
驚いて妻にメールを打とうとするも
いつの間にか文字が打てるようになっていて再び驚く
ありがたや ありがたやと狂喜乱舞する
砂浜の道はいつか深々とした砂地へ還る 菱沼海岸へ
真夏の人いきれは消失して 潮風が乗っ取っている
流木をかき分け 汗まみれにただ歩く 茅ヶ崎海岸へ
遥か向こうに蜃気楼さながらに白い建物が見えている
進めども進めども相も変らぬ遠望に
心折れ項垂れて おめおめすごすご もと来たを戻る
8
詩は感情ではない 本当は経験なのだと
貧しいリルケは若い詩人に書いた
恋は成就しても破れても 詩にしたところでつまらぬ
詩は経験を描くものだと 老ゲーテは呟いた
人付き合いに乏しく
坦々たる 日々の生活に起伏もなく
経験というほどのものを欠きながら
なおかつ詩人と名乗る おお このHubrisよ 純粋矛盾よ
経験を掘り出そうと地面から過去の重たい扉を開く
むせかえる悪臭 無数もの蠢く蛆虫よ
どいつもこいつも悪事の化身 身から出た錆の成れの果て
扉を閉ざして よっこらしょと 岩石を載せる
その上によじ登って坐る そよ風が頬を撫ぜる
青空を見上げて吹く口笛よ その虚偽の身の軽々しさよ
9
朝は木の葉の散り初むる小道を行き
夕べは枯れ葉の散り敷く小道を帰る
尽きせぬ悩みは風に散ってしまった
心地よい疲れが我と我が身に残った
日々是れ坦々たる道を弛みなく歩むのみ
燦燦たる真昼の日差しは
汗塗れになりながらものともせず
爛々と黎明未だしき闇中にも
両の瞳を輝かせながら心明るく
昨日は旅人は旅路を付かず離れず
今日は往く道なべて旅路となって
明日となると 小は道中のミミズを屈んで掬い取る
草地に還しては高らかに白雲を仰ぎ
大は人生という果てなき旅路に思いを馳せる
10
十五分の八倍以上もの時をかけて
遠路遥々鵠沼海岸駅に到る
車内より下りずして知る暴風雨
下りて全身に浴びる横殴りの雨
後方に見返り不二を遠望しつつ
鵠沼海岸を優雅に遊歩するのはもはや夢物語
前方に江ノ島を見据えつつ 水族館を冷やかし
弁天橋を颯爽と渡る白鷺もいまは夢幻
市民図書室にて鬱々たる濡れ鼠と化した
窓に叩きつける風雨を素知らぬ顔でやり過ごし
しばしの宿りとて 静々と手に取るのは貧しきリルケ
オルフェウスへの… ブルータスよ お前もか
我が歌は誰に捧げよう 捧げられようか
かくも拙く かくも幼き供物をば
コメント
若い頃より「ソネット」なる形式に憧れていました。私にはリルケや立原道造のような詩は書けませんが、それでもいつか挑戦してみたいと思っていました。西脇順三郎は、日本語にはソネットは似合わないと言っていたかと思いますが、単なる習慣の問題だと思います。書き慣れてくれば、日本語とてソネットが似合うことも十分にあり得ます。立原道造のように。これは私のささやかな試みです。