余命1億年と1日
「あなたは失敗作です」と開口一番に神が言った。
「失敗作」と私は繰り返した。いくつかの定義が脳裏を過ぎって消えた。
「何を以て成功とするのか、皆目見当も付かないんですが」神は少し微笑んだ。冗談を言ったつもりなのだろう。私も笑ってあげた。
「私は人間を作ろうと思った筈なんです」神は白いテーブルの上に置かれたルーズリーフに目を落とした。ただ一言、そこには、
「ハレルヤ」神は私の思考を遮って読み上げた。「ハレルヤ」私の無機質な声が部屋に響いている。「これは、そう読むんですか」
「私は、人間を作ろうと思っていた私が、なぜこれを書いたのか分かりません。設計図の筈なんです」神は意味も無く私の手を取って、
指が5本あることを確かめていた。頬に触れて温かいことを確かめ、まばたきの度に瞳を覗き込んで、髪の一筋を撫でて真剣に頷いた。
「あなたは私に感謝しません」小さな事務用の椅子に座らされたまま、私は中空の見えないちょうちょを目で追い掛けている。
「それはそうでしょう?この世界で私に起きたことはみんな、到底幸福とは言えないようなことばかりです。何をこじつけても無理だ」
「ハレルヤ」「そう。ハレルヤ」お互いに目を見合わせて、お互いによく似た発音で、同じ言葉を繰り返してみたが、何も伝わらない。
「私の母は私を愛しませんでした」「私の母の母もそうでしたし」「父は母に殺されました」「私は売春を覚え」「売られることだけが幸せだ」
神は意味も無く取った私の手を柔らかく押したり放したりして遊びながらそれを聞いていた。聞いてくれるだけましなのだろうか。
「ハレルヤってあれでしょ、世界は素晴らしい、美しい、称賛されるべき創造物だ、具体性に欠けるんですよ、まるで絵に描いた餅みたいだ」
「日本で育ったんでしたっけ」「私はね」神は詳しく話して欲しそうだったが、面倒臭いので答えなかった。どうしてこんなことに?懲罰房か?
「ここは懲罰房ですか?」私が尋ねると、神は”ハレルヤ”の後にハッシュタグとドルマークを付け足してポロロッカ、と河川の逆流について
「止めてください」「はい」「懲罰ではないんですけど」「はい」「それに近いものではあるかもしれません」「更正を促すという意味ですか」
「更正」神は姿を変えた。どうやら警官の格好のようだったが、現代日本で警官に出会う機会はまずないので、よく分からなかった。目をこすると、
にゃーん、と猫の鳴き真似をしていた。私が眠くなって、うとうとと夢を見ているのかもしれなかった。神。警官。懲罰房。にゃーん。
「私はあなたを称賛するつもりがないわけではないんです」否定形に否定形を重ねながらコメダ珈琲店のモーニングのお代わりの量について考えた。
「あまりにも現実に即さず、人間を見ず、存在を絵空事に頼り切って、善意を実行しない、その不手際にうんざりしているだけです」
「民主主義」「そう」「神も悪魔も参政権を持つ時代です」「ハレルヤ」」「そうであればいいと私も思いますが、」言い掛けた言葉は呑み込んだ。
「私が失敗作であるなら、消してくださってかまいません」
神は愛おしそうに私の髪を撫でながら、頷いた。いつもそうだ。死のうって言うと優しくなる。
「私の余命は後100000000年しかありません」神と呼ばれている何かは警官の恰好をしたまま呟いた。100000000年。
「ハレルヤ、私を創ったものは神と呼ばれることさえ拒否しました」「私はそれが寂しかったのだと思います」「名前も呼ばれずに死ぬのが」
「だから私はあなたがたを創りました」「祈り、願い、希望する美しい生き物に囲まれて死にたかったんだと思います」「分からないけど」
「私が死ぬ時」「あなたたちはきっともう私を神と呼ぶことはなくなっているでしょう」「それでいいんです」「でもあなたは私と同じ目をしている」
「私があなたたちを生んだ時と同じ目をして、同じことを言う」「あなたは失敗作です」「どうして私に祈らないんですか?」「願わないんですか?」
「この薄汚い世界を造り変えたいと思わないんですか?」
私はぼんやりと、部屋の天窓から差す茜色の光を眺めた。神は人の、警官の姿をやめない。私の姿は恐らく患者に似ている。何の病気だろうか。
「だって、あなたが好きだ」ぽつりと私が洩らすと、神はいっそう優しく私の髪を撫でて目を細める。いつもだ。そうされるのは嫌ではなかった。
「いつも見ていたでしょう?私が男に犯されている時、女に犯されている時、親に犯されている時、兄弟に犯されている時、私はいつもあなたを見てた」
「まるで私の眷属のようなことを仰いますね」「違うなら違うで構いません、いつもいつも優しくしてくれるくせに」「私も別に深く考えては」
なんとなく言葉が切れてしまって、私達は床の影に目を落とした。それは正確に私達の姿形を写し取っている。別におかしなところは何も無かった。
「疲れ切っているだけのような気がします」「あなたが振り向かないことに」「こうして撫でてくれることに」「人間が何も学ばないことに」
「ハレルヤ」「設計図なんです」「あなたが失敗作なんです」「私と同じだ」この部屋にベッドが無くて良かった、と私は心の中で呟いた。
一言ずつ区切りながら神は言って、ルーズリーフの引っかき文字を指先で迷路でも解くようにずっとなぞっていた。
神はおよそ自分と同じように人間を作ったらしいので、私にも神の考えていることは多少分かった。これが神からの遺伝なのか、私の能力なのか、
それは分からなかった。神は私を愛している。他の誰でもなく私を愛している。そんな病的な直感が意識を貫いているのが分かる。
そうであって欲しいと神が望んでいるのならそうするべきだという気がしたが、神は何も答えなかった。私はそれを気の迷いだと思うことにした。
「どうするんです?」
つ、と指先に指先を合わせて、出口を探す仕草をやめさせる。神はぼんやりしていた。私の死んだ1光年先まで見通しているのではないだろうか。
「あなたが私に願えばいい」「この世界を変えて欲しいって」「間違ったことを正しくして欲しいって」「祈るだけでは足りない」
「それで警官の姿を?」「そうかもしれません」
祈る力を失くしたというよりも、最初からその”設計図”に私は無かったような気がする、と私はそっと神の前髪に触れながら言った。
愛しいあなた、と力無く呟いた。姿も見えず、何の助けも無く、見殺しにされ、それでもいつかは会えると思っていた、私の神。
私を生んだのはあなたではなく、あなたが一番恋い慕っていた、あなたの創造主なのではないですか、と歌うように続けると、神は黙っていた。
「ああ、ようやく会えたのに、あなたは、私が誰なのか分からない。ずっと、あなたが探していたたったひとりなのに」
「どうして逃げたんです」「愛されることから」
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