月の世界に降る雪は

「お前さんが男だろうと女だろうと」
「待って」
「儂はしたいと思ったことをするだけ」
「待ってください」

柔らかい日差しがシーツの上に零れている。
天使がそれを拾い集めに空から降りて来そうな午後だ。
何処で何に使うのか分からない美しい絹のヒモを手に、
体重に任せて爺さんが青年に馬乗りになっている。

「逃げようとしおったの、また。今月で何度目だ」
「16回。15回目で成功すると思ってました」
「数える程正確に覚えとるんなら諦めたらどうだ」
「無理じゃありません。また一から計画し直します」

押し問答が続く。双方目が笑っていない。
爺さんの力が凄まじいのか、青年は全く微動だに出来ない。
決してしようとしないのではない。出来ないのだ。
物理的にも、精神的にも。

「逃げて何処へ行くつもりなのか教えてくれるか」
「父の所です」
「死んどるじゃろ」
「そうです」

そのヒモ何に使うんですか、と怖くて聞けない。
どうして人は皆生きたがるのだろう?常々青年は思う。
楽しいから、幸せだから、そんな風に聞くのだけど、
青年にはその「生きていて当たり前の快感」が無い。

「躾け直す」
「躾とか関係あるんですか、自殺願望に」
「ああ。生きていて楽しいと思うまで幸せに暮らさせる」
「文法おかしいじゃないですか」

そもそもそんな母国語の使い方が想定されていない状況なのだ。
話すと長いが、長いので話さない。二人とも心得たものだ。
青年はふいと明後日の方を向いて笑った。”それ”はいらない、と。
降参したという意思表示だった。今日は、の注釈付きだが。

「人を猫みたいに飼うこと、俺は別に悪いと思ってないんです」
「そうみたいじゃの。お前さんの心が広いから、ではないようだが」
「人を道具みたいに扱って、捨てる人間から保護するためだったら仕方ないと思う」
「脱がしていいかの?」「話の途中です」

拘束している力が緩んだのを見て、青年はそっと半身を起こした。
腹の辺りに頭の重みが掛かる。爺さんはそこで猫の様に落ち着いている。
しゅるしゅると自分の首にヒモをリボン結びして遊びながら、
時折ちらりと青年の顔を見上げる。お預けを食った動物みたいに。

「その子は字も読めません、市場で林檎を買うのにお金がいることも知りません」
「うん」
「学校ですることはセックスの相手を探すことだと思ってます、先生は何も教えません」
「うん」

うとうとと目を閉じ掛けながら爺さんが頷いている。
仕方なさそうにその髪を優しく梳きながら、青年は呟いた。
この時間が嫌いではなかったが、それは青年の心を癒すというより、
ちくちくと、針のように刺すのだった。後悔と、寂しさで。

「人として扱われたことがないんです。目に見えても無視され、話をすれば遮られ」
「うん」
「ただ金を持ってきた時だけよくやったと頭を撫でられて」
「うん」

爺さんの目がぼんやりと青年のやつれた横顔を映している。
次第に、うん、すら小さくなっていき、頷くことも面倒になったのか、
腹の方に顔を埋めて小さく体を丸めた。青年は一部始終見ていたが、
爺さんを落胆させることが分かっても頑固に意に添わなかった。

「儂もそうじゃった。親は儂を道具だと思っとったし、
ある日突然来たよく分からん連中に金貨三枚で売った。
儂は別に良かったよ。本当にどうでも良かった。死ぬのも、生きるのも。
それでリオの前に連れていかれての」

「リオの家族が、リオに儂を殺せと命じとった。げらげら笑いながら。
儂、別に良かった。儂の心なんて、意思なんて、誰も気に留めとらん。
本当に孤独じゃった。リオ、気の毒な程悲しんどった。分かるんじゃよ。
何故こんなことになった。そう儂に、いや、神様に問い質したい、目がそう言っとった」

「だから、殺せって言ったんじゃがの。儂を」
「迷う必要はないと」
「儂を殺せばお前さんは家族として連中に受け入れられる」
「儂、別にそれで良かったのに、リオがその一言で激昂して、その場にいた連中を」

青年が指先で爺さんの唇を塞いだ。
爺さんは指先を甘噛みすると、片手でそっと顔から払い除けた。

「リオは良い父親になってくれた」
「お前さんに会わせたい人もいる」
「儂といるのは苦痛か?」
「一ヶ月に16回も自殺未遂をする程つらいのか?」

青年はぼんやりと、その美しい銀髪を眺めていた。
答える気がないのか、手だけはずっと同じ動作を繰り返している。
根元の方に指を埋め、そこから毛先まで梳き下ろす。
爺さんも何も言わずにしたいようにさせていた。

投稿者

神奈川県

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

コメントするためには、 ログイン してください。